泥泥泥日記 10日+1日
長野は信濃大町の芸術祭に向かう車内で、携帯が鳴る。
大町よりさらに北にある、小谷村の信州共働学舎の代表の宮嶋信さんからだ。共働学舎とルーツが同じである雑誌「婦人の友」のサポーター友の会の呼びかけで、東京の事務所に雑巾が1万5千枚集まってしまったので、どうにかできないかとのことだった。(どちらも自由学園からできている)
とは言っても1万5千枚という大量の雑巾を、一度に1箇所に送ってしまえば倉庫はパンクする。さらににと豪雨から1ヶ月経っており、今必要とされているものが何なのか分からなかった。「信さん、行ってみないと分かんないですよ!」と返すとじゃあ行こうとすぐに能登へ行く日程が決まった。許される時間は少ない中3日間こじ開け、信さんと僕と、若者と3人で能登へと向かった。
小谷村まで終電で向かい、学舎に前泊する。翌朝7時ごろに出発して、まずは三井ののと復耕ラボを目指す。小谷からだと糸魚川まで下道で1時間、そこから高速を使って3時間で行ける。東京から自走で向かうより負担が格段に少ない。途中、七尾あたりの交差点で路肩にはまっている軽自動車を発見。通り過ぎるのも癪だなということで、そこにいたお婆さんに声をかけるが、とにかく薄着で寒そうにしてるだけ呆然と立ち尽くしていた。携帯も持ってなく、家から墓参りの途中だったそうだ。代わりにJAFを呼ぶ。そのうちお爺さんも戻ってきたが、こちらも携帯を持ってなったので、信さんが名刺に名前と電話番号を記してその場を離れた。これもボランティアだよねって言いながら、あらゆるお手伝いの業種を選んでる場合ではない、困っている人がいたら助けるを当然のこととしてできるのはいいなと思った。
そんな寄り道があったものの、約束の時間に復耕ラボに着く。代表の山本さんと尾垣さんと再開し、尾垣さんに重機が入る現場まで案内してもらう。
信さんは普段からバックホーに乗るので、重機ボランティアを希望していた。先月来た時にも入った、仁行和紙近くの現場の数軒隣の家へ入る。
住み続けてるお宅だがこの日は不在。よくみる裏の山が、崩れ家の壁まで泥が被っている現場だ。そこに信さんを一人残し、尾垣さんと別件の側溝の泥かきへ行く。小一時間ほど側溝の蓋をあけ、泥を出し終えて信さんの元へ帰ると重機の燃料切れで、もう動けなくなっていた。この日は移動日だったこともあり早上がりさせてもらって、輪島市街へと降りていく。
輪島の街中まで降りるのは大雨以降初めてのことだった。燃えた朝市までの道をゆくと、地震で倒壊した家と焼けた敷地と、崖が崩れたところと、川の氾濫とまちがヒッチャカメッチャカになっていた。見慣れてしまった瓦礫の風景に、さらに上書きするようにして泥が塗られている。自衛隊風呂から引き継いだNPOが沸かす通称NPO風呂に入って、夜ご飯を買って帰る。
拠点にてみんなで刺身と買ってきたお酒で卓を囲む。ボランティアの後の交流会。みんなで茅葺庵の中でテントを張って雑魚寝。