沖縄からの帰路で思い出した記憶
声にならない叫びとなってこみ上げるこの気持ちはなんだろう。
喜びだ、しかし悲しみでもある。苛立ちだ、しかも安らぎがある。憧れだ、そして怒りが隠れている。
谷川俊太郎さんの「春に」を聴いて溢れてきた気持ちがあるので綴る。飛行機内で思い出した、10代の頃の記憶を。
この週末3日間、私は沖縄にいた。
1,2年に1度会っている、中学の友人たちと時間を過ごした。私を含めて4人、中学生のときはいつも一緒に子たち。そのうちの1人が現在那覇に赴任していて、次の勤務地に変わる前に会いに行こうという話になり、今回会いに行ってきた。あとの2人は愛知で看護師として病院勤めをしていて、まだ学生なのは私だけ。3人とも自立していて、堅実。
中学生の頃から、3人は優秀で文武両道だった。みんな学年順位トップの常連で、数学が苦手な私に問題の解き方を教えてくれたこともあった。落ち着いていて、一見大人しく物静かだけど、実際は強かで生徒会にも立候補するし文武両道だったから人気もあって、スクールカーストの中でも上位にいるような人たち。
何故私が彼女らと仲良くなったのかはよく覚えていない。入学したての頃、背の順が近かったから話をしていたのかな。部活も一緒だったから。ただ、別に話が合った訳ではなかったし、むしろみんな全然違う性格だった。
その頃から私は暇さえあれば幕末に想いを馳せていたし、日記には沖田さんとバレーのことばかり書いていた。休み時間は公文の長文を読んでいるか外でバレー。好きな人はこの世にいない人ばかりで、坂本龍馬と沖田総司、コナンくんが本気で好きだった。
だから正直なところ、彼女たちとは、価値観も、興味や趣味も、話し方も、あまり多くは一致しなかった。きっと各々いろんな価値観があったと思う。でも仲は良い方で、みんなでいる時間は長かった。部活も一緒に頑張っていたし、修学旅行も同じグループになって動いた。みんな私の突飛な言動に大人の対応をしてくれてた。
あ、もうひとり、仲が良かった中学時代の別の友人がいた。面白い子。時々早朝に待ち合わせて、バレーの朝練前にお互いの好きな本を一緒に部室で読んでいた。彼女はミステリー本が好きで、私は司馬遼太郎が好きだったから、時々感想をシェアしたり。夜は、互いの塾が終わってから深夜の公園で待ち合わせてブランコしたこともあった。ブランコ大好き。
話を戻す。私は、今回一緒に旅行した3人のことが今でも好きで、大切に思ってる。でも少し距離は感じる。心地の良い距離感だけどね。
沖縄で夜遅くまで会話していて、やっぱり生きる業界が違うのかな、と思った。価値を見出す部分にやはり個人差があって、互いの「知っていて当たり前なこと」が違う。彼女たちの頭の良さとキレはさすがだと思うし、どんなこともバランスよくこなすその女性らしい技量には惚れる。きちんと丁寧に物事をこなして、人生のパートナーを見つけていることには、嬉しい気持ちもあるし、遠目で見つめたい気持ちもある。
中学生のときから気づいてた。私は彼女たちとはタイプが違うなあ、得意不得意がハッキリしているなあ、と。
当時の英語の先生には「あなたは、周りをアッと言わせる人になります。少し周りと違うと気づくことがこの先多くなるかもしれません。狭い世界に留まって生きず、広く動く女性でいてくださいね。」と書かれたメッセージカードをもらった。
その頃、私は、周りの人たちに「成人式には出席しない」と公言していたらしい。それはたぶん、その場に自分が染まらないことも知っていたし、染まることが嫌だったからだろうな。事実その5年後、私はアメリカにいて名古屋には帰らず、成人式は欠席した。「まどかはやっぱり来なかった(笑)」と話しが出たよ、と後から聞いて、思わず笑ってしまった。
那覇から成田に向かう飛行機の中で、当時のことを振り返っていたら、中学校の卒業式に考えていたことが急に思い出された。
「好きに動こう、赤身魚のままでいよう。だけど好きな人たちが大切にしているものは奪わない。好きな人たちが大切にしているものを大切にする女性になりたい。」
そうだった。
「好きな人たちが大切にしているものを大切に想う女性」
私はこれがモットーだった。今までこのモットーがあったから、男女問わず好きな人たちのことを心から応援できた、と思う。
名前通りに、人との円みに重きを置く人間になりたかったの。
もう忘れない。この想い、覚えておく。
沖縄から東京に向かう飛行機のなかで考えごとに耽るなかで、ふと思い出した記憶だった。
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