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私の将棋歴(アマ5級まで)

初段や5級になるまで、どれくらいかかるかという話題になった。段・級の定義は曖昧なので、どこの5級かでだいぶ違う。級の認定方法は重要課題と考えているが、ひとまずは自分の場合どうだったのか調べて振り返るところからはじめてみたい。

私の将棋会館道場での昇級記録を思い出BOXから発掘。


7級 平成8年8月12日(認定)
6級       同年8月19日昇級
5級       同年9月19日昇級

と、認定から5級まで約1か月。ではその前はどうだったのか。
思い出とともに振り返ってみる。

将棋のルールはこどもの頃に教わった。家に折りたたみの将棋盤があって、山崩しや回り将棋で父に遊んでもらった。そのときの盤駒はいまでも手元にあって、ひさしぶりに引っ張り出してみた。このコラムのトップの写真が、こどもの頃に使った将棋の盤駒だ。いつからあったのかはわからないが少なくとも35年以上前のものだと思う。私が遊んでもらったとき、少なくとも新品ではなかった気がする。

うちには他にチェスもあって、そちらはよく母とゲームした。将棋は金と銀の動き方がなかなか覚えられず、龍と馬の見分けがつかなかったけれど、チェスの駒は底に動き方が書いてあったので、わからなくなったときはひっくり返して確認すれば良かった。
(話は脱線するけれど、これが「動きをデザインで表す」ことが必要だと考えている原点だと思う)

将棋をやっていて「銀て横にいけるんだっけ」と聞いた時に「何度言っても覚えないねぇ」と返ってきて、急に面倒くさくなった記憶が残っている。そのときの部屋の風景を思い出すにたぶん小学一年生くらいの頃で、基礎ルールは知っているものの、駒の動きがあやふや、王手はわかるけれど詰みはわからない、という状態だった。父も対して強くなかったのだが、NHKを見ていたりして、たぶん5級くらいだった。王手を見逃してもらうくらいしか勝つことができず、駒が盤上に戻ってきてぜんぜん終わらない気がして飽きた。本将棋より回り将棋のほうがずっと好きだった。

こどもの頃はヴァイオリンを教わっていて、ほかにもピアノや水泳などいくつも習い事があり、友達と遊ぶ時間は少なく、翻訳業で自宅で仕事をしていた父に遊んでもらうことが多かった。またはひとり遊びか読書だ。手を傷めないようにしていたこともあり、運動が苦手でインドア派なこどもだった。この頃に将棋の楽しさに気が付いていたら、人生が随分違っただろうなぁと思う。

それから時は流れて高校生になり、外部進学と内部進学がちょうど半々だったうちの学校では、ゲームが流行った。コミュニケーションに良かったのだろう。トランプやUNOなどはあちこちで遊ばれていた気がする。そしてだれがもってきたのかわからないけれど、あるとき将棋を見つけて指した。2つ隣のクラスの女の子に負けて、なにか心に火がついた。
その頃、月に100冊近くの本を読んでいて古本屋によく行っていたので、BOOKOFFで将棋の本を探した。安かった「近代将棋」を買ってみたが、なにが書いてあるのかまったくわからなかった。久しぶりに父に挑んだら、あっという間に負けたので盤をひっくり返した(反抗期だった)。
たぶんこれが夏休み前のことで、将棋の本を探しては読んだ。もともと勝ち気な性格である。父に挑戦をして負けるたびに悔しくて、いろいろ考えた。

当時は稲城市に住んでいたのだけれど、もともと世田谷育ちで友人も多かったため、8月の初旬に毎年行われている世田谷区民まつりにいった。将棋コーナーがあるのを見つけ、大盤に並べられた詰将棋を見ていた。「将棋わかるの?」と声をかけてくれた方が、解き方を教えてくれて盤で一緒に動かした。そして、いわれるままに解答用紙に答えを書いた。その紙は抽選箱に入らずこっそりと手渡され、私は「凛」と書かれた扇子を戴いた。
詰将棋を教えてくれたのは伊藤果先生で、扇子をくださったのは現会長の佐藤康光先生だった。…ことを後で知った。これがプロ棋士との初めての出会いである。

その後、世田谷区民祭りに一緒にいった友人と、将棋会館の道場にいった。私は7級、友人は9級と認定された。とりあえずどんなところかわかったので翌週は朝から行ってみた。6級に昇級できた。

夏休みに、世田谷の弦巻区民センター内の児童館でこども将棋大会が行われていた。こども対象だったので参加はしなかったけれど、区民センターで行われている将棋クラブの大人の方が教えに来てくれていたので、駒落ちで教わった。「5五の龍」に載っていた形を思い出しながら指すと「何かで読んだの?」と聞かれ、見込みがあると思ってもらえたのか、クラブに誘ってもらえた。児童館とは別の会にある集会室に行くと、大人たちがたくさんいて、部屋の右側で将棋、左側で囲碁をやっていた。

9月からその区民センターの将棋クラブに通いはじめた。
当時の将棋関連資料のファイルにクラブの案内及び申込書が残っていた。水曜の午後6時~9時半、日曜の1時~9時に開催。年会費4000円。名簿には五段1人、四段2人、三段2人、二段5人…の名前が記されている。地域の集まりだけれども、強い人が結構多くて年3回の大会で良い成績を取ると昇段・昇級できる仕組みだった。

私はそのクラブの時間内で、内川さんという四段の方に定跡を教わることになった。「どれくらい強くなりたいか」と聞かれて、まったくわからなかったので「内川さんと平手で指せるようになりたい」と答えた。そうしたら内川さんが真剣になり、クラブに行くたびに1時間半から2時間近く定跡を教並べることになった。
題材はなに良いかと聞かれて、唯一言葉として知っていた「棒銀」と言うと「並べてみろ」と。定跡なんか知らなかったから、銀をとりあえず進めてみたら「なんだ原始棒銀か。やるなら角換わり棒銀だ」ということで、はじめに教わったのが、角換わり先手棒銀だった。2回目に54角に38角というかの有名な升田先生の手を教わった。
意味はほぼわからないまいので、ひとまず丸暗記である。理由や考え方を教えてはくれたが、なぜそれで優勢なのか理解できる訳はなく、ひとまず手順と言われた内容を覚え、帰りの電車で棋譜とコメントを書き付けた。

道場に行っても、同格の相手との対局ではそんな定跡形が出てくることはない。そもそも角換わりの出だしは手順が難しいので、低級者同士だと普通のの角換わりにすらならない。それでどう指せばいいのか逆に混乱した。
実戦で見ない定跡をなんのために覚えるのかよくわからなかったが、確実に棋力は上がって5級に昇級できた。

その頃の練習方法について。
・週2で定跡を習う
・将棋クラブのメンバーや父と対局する
・近代将棋の付録の小冊子を読む
 (級位者向けでわかりやすかった)
・将棋世界で連載中だった所司先生の「駒落ち定跡」を読む
 (クラブの方がまとめてコピーして渡してくれた)
・週刊将棋の詰将棋を解く
たぶん、これくらいだったと思う。
将棋倶楽部24ができる前の話。そもそもインターネットにつなぐのが電話回線で、それほど普及していなかった時代である。私が使っていたPCはMacで将棋に対応しているソフトが見当たらなかった。
本や雑誌は読める所が少なかったから、わかるところを繰り返して読んだ。

今とは随分違うけれど、それでも5級にはなれた。

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