市川沙央さんのハンチバックを読んでみた。
小説というものを読まなくなって久しい。小説を一所懸命に読んだのは、大学生までか。向田邦子さんが好きで、徹夜では読み終わらず、大学の教室までもっていって授業中に読み終えたのは遠い昔の若気の至り。
ハンチバックは、芥川賞を撮った作品。芥川賞といえば「純文学」。汚れちまった僕にとって、純という文字が煩わしい。
ハンチバックを手に取ろうと思ったのは、彼女の芥川賞受賞時の記者会見での飄々とした姿とインタビューでの記者とのやり取りを見たから。
言葉は難しいが「身障者」である彼女が、車いすを操り、舞台の中央に現れる。彼女の細い手は、「文藝春秋」と「ハンチバックの単行本」を持っているが、持っていることが「大丈夫か」と心配になるくらい弱弱しく感じられた。
彼女は、長いこと「身障者」であるという目で社会から見られてきた。彼女は、社会が、接する人たちがどのような気持ちで接してくるかをわかっており、インタビューアーの質問を、俯瞰し、ユーモアで答える。
僕は、芥川賞を受賞した本より彼女のことが気になって、本を読んでみようと思った。
正直な気持ち、この本を読んでいる間、心地よいものではなかった。
その一番の理由は、僕の心が試され、見透かされてているような気がしたからだ。
「わたしの心には、差別がある。」
この言葉を突き付けられている感じから逃れることができなかった。
読売新聞に「私を作った書物たち」という、彼女の読書経験の記事が載っていた。その中で、彼女はこう語っている。
「あの頃の私が病院通いの可哀想な子どもで、物語に救われていただろうなんてストーリーは、ちっとも本当のことではない。東京の頭のいい高校生たちの繊細で超常的な青春群像劇にひたすらあこがれていたことだけがほんとうだ。」
そう、僕はきっと彼女を知っていれば、彼女のことを「可哀想な子供」と勝手に思っていたはずだ。
彼女は、周りが彼女をどう思っているかを知っている。そして、飄々とユーモアに変えてほほ笑む。
「身障者の性」を私たちは勝手に想像し、勝手にその在り方を決めてしまう。「ハンチバック」は、私たちの勝手な思いを静かに嘲り笑っている。