語りと騙りー嘘から生まれる「真実」

嘘をついてはいけませんと言われながら育ちました。


嘘をついて人を騙すのは悪いことです。 人からの信用を失います。


ではこの世から嘘が全くなくなったらどうなるでしょうか。


そんな面白い設定から始まるのが、 渡辺優平・作『ウソキヅキ』(少年ジャンプ+)という読み切りマンガです。

(出典;少年ジャンプ+

舞台は嘘という概念を全く知らない世界。

サラリーマンが正直に「ゲーセン行きたいんで有給取りまーす」と言い、

テレビはニュースと広告だけが流れている、そんな世界です。
(もっとも、ニュースと広告が嘘のない「事実」なのかという問題は、ここでは触れないことにします。)



さて、あるとき主人公は「事実と違うことが言える」ということに気付きます。

彼はこの「発見」を友人一人だけに話し、二人だけの秘密とすることにしました。


嘘を独り占めした二人は、

銀行でお金をだましとったり、テストの結果を改ざんしたり、嘘を使って成功していきます。

事実しか言えないと思っているこの世界では、誰も疑おうとしないからです。



しかし、面白いのはここから。 ある時、主人公と友達は

「昔々あるところに、おじいさんとおばあさんが・・・」 と話すことを思いつきます。


「何それ面白い!」と二人は大ハマり。


彼らが生み出したのは、
そう、物語です。


物語は、嘘から始まり、

その嘘を他の人と語り合うことで開花するのです。



もっともこれは少年漫画。 

クライマックスは バトルしてチャンチャン、と終わるのですが、

しかしこの漫画は非常に重要な点をついています。



 「語り」と「騙り」の関係です。



もう一つ別の作品を紹介しましょう。 ティム・バートン監督の映画『ビッグ・フィッシュ』です。

(出典;Amazon.co.jp

大ホラ話が好きな父と、それを嫌悪する息子が主人公です。


父の語る半生は、「ありえないこと」で溢れています。

死に方が目に映る森の魔女、5mもある大男との旅、サーカスでの狼男との取っ組み合い、などなど。


息子はその冒険譚を、子供の頃はワクワクしながら聞いていたものの、大人になるにつれ鬱陶しく辟易し、ついには断絶状態。父が余命いくばくもないときいてやっと、久しぶりに実家を訪れます。


ネタバレになってしまうので、あまり多くをここで書くことはできませんが、

一箇所印象的なシーンがあります。


父が若者の頃出会った少女に、息子が会いにいくシーンです。


かつての少女も今はくたびれたおばさん。

そして、息子に「本当は何があったか」を話します。


その元少女は、彼女にとって受け入れられなかった
あまりにも辛いできごとを語り、
そしてこういいます。


「こうして私は魔女になったのよ」


この魔女というのは、父が子どもの頃に出会った、「人の死に方が目に映る森の魔女」のことです。

そんなことはあり得ません。時系列がずれています。


しかしこのシーンを観て私は、

ああ、これは「嘘」と「真実」の関係を描いた作品だ、

と思いました。


時系列的に、彼女が魔女であるというのはあり得ません。

そもそも魔女などという存在も、現実的にはあり得ません。

彼の話も、彼女の解釈も、「嘘」ということになります。


しかし、彼女がその後魔女になった、という解釈、

かつそれを彼女自身が語るということ、

それは、現実よりも強く、一つの「真実」を示すように
私には感じられました。


実際によく見ると、魔女と元少女はよく見ると同じ女優がやっています。

監督としても、そして彼女は魔女になった、ということを、
観客にとって目の前にある「真実」として描き出した、と言えるでしょう。



マンガ『ウソキヅキ』では、嘘の全くない世界が描かれます。

そこが、真実だけが溢れているユートピアかというと、そんなことはありません。

むしろ、誰もがデリカシーのない発言をし、
娯楽が少なく、
とても退屈な世界です。


嘘という概念なくして物語は生まれません。


人が嘘をつけるからこそ、

世界は現実を大きく超えて広がることができます。


かつ、その騙りこそが、

ときに、現実よりも「真実」を表現し、

それ自体が「真実」となる、ということもあるのです。



世界中どこに行っても、必ず「物語」があります。

騙りのない語り文化はありません。


もちろん人を傷つける嘘は、あってはなりませんが、

嘘をつけるから、人は「想像」することができます。

そして、「想像」したことを他の人と語り合い、騙り合い、

現実を大きく超えた世界を、一つの「真実」として現前させる。

これが、私たちが「芸術」と呼ぶものの一つの側面です。



「想像力」と「創造力」が

日本語では同じ読み方をするというのも、

偶然ではないように、私には思えてなりません。

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