多数派には名前がない

「シスジェンダー」という言葉をご存知でしょうか。
あるいは「墨字」はいかがでしょう。

「シスジェンダー」とはトランスジェンダーではない、体と心の性が一致している状態のこと。
「墨字」とは点字ではない(今私が書いている)文字のことです。

これらの言葉はどちらも、少数派が多数派に対してつけた呼び名です。
そして多くの場合、私たちは自分が多数派であることに関して、その名前を知りません。

私は、これが「ふつう」の正体なのではないか、と考えています。

ふつうとは、その環境での多数派であり、その名前が無い、あるいは名前が意識されていない状態(=本人にとって無い)こと。
そして「ふつうじゃない」存在が現れて初めてあらわになることなのではないか、と私は思うのです。

ここで面白いのは、多数派が「非トランスジェンダー」「非点字」などではなく、「シスジェンダー」「墨字」といった全く別の言葉で呼ばれていることです。

たとえば私は自分をシスジェンダーだと思っていますが、
それは「トランスジェンダーではない」状態なのではなく、「体と心の性が一致している」という状態です。

これは「〇〇ではない」という情報よりも重要な価値を持ちます。
こうした名前の存在を知ることで、私は自分や日常のふつうが「なにで構成されているのか」に気づくことができるからです。

もやッとしている「ふつう」の正体が、くっきり見えてくるのです。


障害学・社会言語学の研究者である、あべやすしさんはこう言います。

「社会の多数派だからこそ、知らないことがある」(*1)。

私はここに、少数派の視点の重要性の一つがあるように思えてなりません。


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(注)
(*1)あべやすし2015『ことばのバリアフリー 情報保障とコミュニケーションの障害学』生活書院、p.13。
この本は実は今回の記事全体の元ネタです。一般向けに書かれた読みやすい本なので、ご興味ある方はぜひお読みください。言語そのものが誰かにとってバリアになり得る、など、名前がなかった多数派の視点がどんどん塗り替えられます。

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