外様、始動
初めまして、名前も知らない人。
ここでは自分の過去を振り返ったり、
現在を捏ね繰り回したり、
それを来るかどうかも定かでない未来に案ずるだけの場所。
主に、外様が過去と現在を調理して結果を推測するところ。知らんけど。
まずは産まれ堕ちましたが、家庭環境がオ糞であらせられた。
この場合の家庭環境というのは一番身近な親ではなく、親戚的な?
で、早くに親一人子一人になったので、親の実家に身を寄せるわけですが、
園から帰ってきた後や休日は一人遊びしかした覚えがない。飯と風呂が用意されるだけ良かった。本音を言うと、親戚とももっと遊びたかったが。
あとこれは少し話が逸れるが、ある朝片瞼にしこりができ、見つかったら怒られるのではないかと思い、鋏の刃面をしこりの根元や、切先を瞼の裏側にope.よろしく宛がったところで親に激怒され、園に行く前に眼科へ寄り、麦粒腫という診断が下りた。たしか眼帯は……記憶にない。
そして周りより数時間ほど遅れて登園した靴箱に知的障害の子がいた。自分の存在を捕捉した瞬間「あー! 窓つき遅れて来てんだ!」と、指をこちらに指しゲラゲラと笑い転げた。
この一件があってから(これが自分の生涯に於て始まりだが)、『障害とは嫌なものだ』と強く刷り込まれた。
さて義務教育の第一段階である小学校。件の知的障害の子もいる。
何故なら、そういう生徒を特別に面倒見るクラスがあるからだ。
入りたての頃は、気にせず20分休みや昼休みに外に出て遊んでいたが、園の頃の麦粒腫遅刻を大声で叫んだり、かと思えば他の生徒と遊びで一緒に走っていたら後ろから凄い速さで追い掛けて来たりと、言葉を選ばずに書けば奇行が絶えないので、教室内に籠っていればやれ「付き合いが悪い」だの、校庭で遊んでいた時の風説などなどで小学校という懲役6年は無視をしても、持ち物を汚したり壊したり、集られてもどうしようもない、空気の方がマシな存在でした。
とはいえ僥倖もあった。ブラスバンドと合唱。これにはかなり救われた。
顧問にも、自分で音を出すということ自体にも。
下手な癖に楽器に触れて音を出し、旋律を奏でるのは大好きで仕方無かったので、4時間目の音楽の授業から配膳を忘れ、音楽準備室で楽器を組み立てて、教室に戻って食べ終えられるかどうかなんて殆ど考えもせず、ひたすら楽しく、「ここの音、綺麗に出ない~!」と何度も音を連ならせることを楽しんでいた。
だが、数か月ほど本ッッッッ当にクラス、それ以前に学校へ行こうとすると足や胃が痛くて登校拒否を起こした。宿題をやってないからサボりたいとか、提出期限間際のプリントを失くしたからヤッベどうしよう、レベルじゃない。ここで初めて、この場から救われるなら死んでもいいと思った。
どうやって死のう、『ひぐらし~』の梨花ちゃまみたいに包丁グサグサできたらいいな、飛び降りるのは怖いな。この間、0,2秒。痛みは続く。
ところで文明の利器は凄い。休むという一報を入れたと親から聞いた瞬間、痛みが霧散した。
拒否の力はそれなりにあったのか、複数人の主犯格のうち1人は菓子折りを持って涙ながらに、また別の日には取り巻きの生徒複数人がおずおずと玄関先に固まって謝罪していた。柳刃とパン切りの両刀で玄関へ向かっていって、暴れてやろうかとも思ったが、今はしなくてよかったと少しばかり思う。黒歴史になること請け合いなので。
ところで、己の受け持つ生徒が一人欠けたことで、失ったであろう成績を取り戻したいのか上げたいのか知れないが、拒否し始めて半月しないくらいだったか。お稽古事が夕方で、それを終えたら我が物顔で家の中に座っていて、茶を出されていた。
何でだ? というか家に来るなよ! 出て行けよ!
とりあえず座卓に自分も上がった。そして始まったのは、「何で来ないんだ? 楽しいぞ!」、「みんな寂しがってるぞ!」
こんなような事をこちらへ放つ言葉を変えて2時間ほど、さも己が間違っている訳はなく100%正しいと信じて疑わない笑みを浮かべながら、雄弁に語りこの家を後にした。
最悪なのはこのような"家庭訪問"が、自分が登校拒否を止めるまで毎日続いた。流石に家の人間がいいようにしたお陰で、時間は初回に比べれば大幅に削減されたが、毎度間違った熱波を60分~90分ほど浴びるのは堪えるので、家のチャイムが鳴ったことと時間を摺り合わせ、担任が家にいる間だけは寝室に完全に引き籠った。
この事も大きく関係しているが、「教師は糞!(極々一部を除く)」と、強く強く刷り込まれた。因みにこれは今も根強く残っている。
そして学区域を変えようかどうか迷ったが、どうせ抽選に落ちるのも何だし、環境を変えてこれ以上悪くなって馴染めなくなるのが怖かったので、学区域の中学に進学する。だが、これが一番の間違いだったと思っている。(区域外の抽選とやらに賭けて外れても同じ運命なのだろうが)
まあ案の定クラスに馴染めなかった。それはもう浮きに浮きまくった。
入学当初は、少なからず席が近くて喋る程度の人間ではあるが居た。最後の頃はそれすらZEROである。関わってはいけないアレ・ヴォルデモート卿の様なものである。自分の場合はもっと下の下の下の存在だが。
それに関して強烈なエピソードは2つある。
まずは部活。部活は好きが高じて吹奏楽部に入った。
だが、それなりにメンバー数も居るので、毎年出ているコンクールには全員は乗せられない。(そもそも人数制限もある)
打開する手が、年齢を鑑みると悪手だったように思う。
それはコンクール用に割り振られた楽譜を、楽器・パート毎に区切って、全部員と顧問の前で演奏し、舞台へ上がるに相応しいかを目の前で挙手という形でジャッジされる。先輩だの後輩だの、もちろん友達だの関係無く。
自分は別の楽器ではあれど経験はあったので一発パスしたが、何度も落ち、舞台に上がれなかった先輩も居た。それは至極気の毒で、肩身が狭かった。
そして、大きな括りでは同じ楽器(木と金、打)でも行われ、パートが振り分けられたり振り分けられなかったりする。当時の年齢を考えれば、やっている事は残酷すぎたと思う。
だが部活全体が『金賞』という絶対的な目的地を設定したのだから、もう変えられない。変えようとすれば顧問を始め、メンバーから白い目で見られるのは用意に想像がつくだろう。
金賞という目的へ向かう道中がもう異質で、既に私は省きの対象になっていた。
金管の中でも別の楽器の担当から波及していって、最終的には同じ楽器の同学年や他の楽器の同学年とも口を利けなくなった。
もうね、馬鹿らしいし。惨めだった。
一応大会には出るだけ出て、退部届を出した。
するとその顧問、
「悲劇のヒロイン振るなら、まずは当事者と話し合ってからにしてくれない?」
怖くてどうしようもないから逃げたいって言ってるのに、立ち向かえって斬新すぎませんか??? 情けない事に、部室から出たあとは記憶がない。多分辞めた。その後は幼馴染が入ってる緩めの部活へ。
何だかんだ1年やれるもんだな、と思いながら日々凌いでいたんだけど、ある日席替えをした。
前に来て紙袋からくじを引いていくスタイルだった気がするが、もうよく覚えていない。
まあなにはともあれ、結果がどんどん黒板へ明らかになっていき、もともと一番後ろで奥の角席にだったのだが変わらずそこに。
その結果に、水を打ったようにクラス中が静まり返った。
同時に、やっぱり自分はここで過ごしてはいけない存在なのだと知らしめられた気がした。
時期は1年の3月。気づくには遅すぎたかもしれない。
それからは区内の学校の中にあるフリースクール的なところで授業を受け、テストともなれば嫌嫌本籍校の教室に入って受けた。
そうしないと参考点扱いになってしまうからだ。
中3になってからは週に一回、本籍校のカウンセリングルームで過ごすということをしたりもした。実際カウンセリングもやるのだが、そこにはたまたま元クラスメイトも居たりして楽しかった。
だが、一回大きい修羅場が起きた。
卒業式事件。今はどうか分からないが、自分の時は練習をしてから出ないと、本番に出さないというシステムだった。だから担任が、「卒業式出たいよね? 出るためには練習も必要だから頑張ろう? みんなも会いたがってるしさ!」
はい来ました、「皆も会いたがってるし」幽霊の存在を誰も見たがるわけねえだろ。何なら迷惑してるの、知ってるからな。
「行きたくない」「来て」の押し問答をしているうちに、「〇〇さん(恐らく学級委員長)を呼んだから話してみてくれる?」と、もうごちゃごちゃな展開に。
とりあえず室内に招き入れ、カウンセリングルームは担任以外の人間で満たされ、気まずい沈黙で淀む。
「卒業式って、出てみたいなって思う?」
「ごめん、思わない」
「そっか……」
委員長はソファから立ち上がり「私、今のこと先生に伝えてくる」、とこの場を後にした。
そして再び入ってきた担任が口を開き、
「〇〇さん、泣いていましたよ」
正直、だから何だよ、である。
担任が姑息な手を使わなければ、その子は泣くこともなかったろうに、と未だに思ってる。ちなみに、こちらも泣きながら「行きたくない」とは言っているんですがねぇ。おかしいなぁ。
見かねた友達が「これ以上窓つきがやられてるの見てるのしんどいし、何回も行かないって行ってるんだからいいじゃん」という口火を端緒に、カウンセラーも動いてくれて、この話は終わった。
一応後日談があるが、公式の卒業式が終わり、時間をずらして校長室で卒業証書授与を行わせてもらえた。そこには20余人居て、だから必死だったのかと妙に納得した。
はい、高校へ進学。規格外の子のための場所です。それ以上でもそれ以下でもない。
自分はダメな人間だから、此処で何とかせねばいかんとした。
故に普通を欲したので3年で卒業できるように時間割も組んだし、その中でゆるく遊んで、それなりに部活もして、途中離脱した。
ここが一番楽しかった。
そして親のススメと、タイミングで興味を持って入った医療系の専門学校。国試がかかってる分、一番勉強したやもしれない。
年齢層が幅広いから沢山の人(クラスメイト)と触れ合えて、それだけでもう初年度は疲れたりした気がする。
いろんなひとがいるなって。
で、新卒でチェーン展開してる接骨院に就職した。
最初はよかった。みんなで頑張ろう的な。キャラじゃないけど。
でも性に合わない事はするもんじゃないね。
研修が終わって、配属先に向かったら地獄だった。
他の新入はどんどん実戦デビューしていくのにおいていきぼり。(そもそも患者が来ない&来ても指名で自分の入る隙がない)
何とかせねばと院長の体を借りて練習をしたが、何がどう悪いのかうまくその場で理解できない。そんな中で「積極的に患者を取ろうとしろ」と。無理だよ〜!メンバー間で軋轢出るわー!知らんけど。(院長以外ほぼ女)
悪循環。配属されて半年経たずに適応障害がでたので、また別の部署へ。そこも爆弾があるとはつゆ知らず。
同期が既にいたがそいつが問題だったそうで。出勤日が被ったら、ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと電話を掛け通し。営業時間中もそう。受付で電卓を叩くのと同じようにスマホを叩く。
掛ける。出ない。リコール。掛ける。出ない。リコール。掛ける。出ない。リコール。――。これを本人が出勤してくるか、もう今日は来ないなと諦める又は他のところからヘルプが来るまでやります。
なお、これは通常業務と並行して行われるのでかなり疲れます。
これが直接の原因かは分かりませんが、酷く体調を崩しました。
そして、うつ病と診断が出た訳ですがまあ働けはするんです。
ある時ぷちんと理性がなくなったように、「もう死にたい、居なくなりたい」と眠剤数百錠をビールで流し込んで布団に潜り込みました
https://twitter.com/Astrea118411028484?t=b-MAIawtXM5jeMTZGsHLYQ&s=19
気がついたら、ボコボコと黒い穴が空いた白い知らない天井でした。
本当にこんな事あるんだ、と思いながら体を動かそうとしたらうまく動かせず、「ああ、これが四肢拘束というやつなのか」と知りました。右手に握らされたゴム風船状のナースコールを押してトイレに行かせてもらい、後で主治医から説明を受けてくださいとナースから指示された。
待っているが眠くて仕方がない。大方、残っているのだろう。
実際ドクターとの話し合いのときもあくびを連発してしまったし、即日退院以外の内容は今記憶にない。
家の人間も戸惑ったか、私に持ってくるメガネを忘れてきたので、覚束無い足取りで歩き慣れていない帰路を辿るのは、かなり恐ろしかった。
そして華々しく会社は首になり、今は某就労支援A型事業所へ行っている。
この先どうすればいいのか……。
やりたいことってなんだよ、あるにしても凡才以下じゃやったところで意味ないじゃん。
こんな感じの二本立てで、死にたくなりながら生きています。
どうぞよろしく。