現代文の読まれ方(仮)
現代文の読み方ではなく読まれ方を少し考えてみました。読み方は好きにすればよいと思います。どう読むかなんて自由だし、型にはまってない方が良い事なんていくらでもあります。わざといく通りにも考えられる文章を書くのもまた乙なものです。
試験に現代文がありますが、みなさんどうお考えでしょうか。勉強してもできないしセンスだろうと思ってる人はある程度正しそうだし、ある程度間違っています。試験の答えを出すのはテクニックというかお約束です。筆者が意図した内容が答えにならないこともあり、問題がおかしいのではないかと思われることもありましょう。いいえ、必ずしも筆者が考えた内容が読者に伝わるわけではないのです。そして、その一般的に伝わる内容というのはその時代や社会情勢によっても変わってくるのです。そして読み手のレベルによってもぜんぜん違うのです。だから孔子は弟子によって伝える言葉を変えたのです。では、その文章が伝える内容を一般化する方法はないのか、それを実現するのは何なのかということになります。
それが数学になるんです。
正確にいうと論理的思考ということになります。ここを核にして書き手の思想や時代背景なんかをのっけていくことになります。でも筆者が想いを乗せれば乗せるほど論理的思考を保つのが大変になっていきます。筆者の作った矛盾のない定理の集合が自分自身の無矛盾性を説明できない事態も想定できます。なので試験で出てくるような文章にその辺のことは分かりません。全員が最低限に読み解けないといけないこと、多くの人に伝わると思われる内容(少なくとも現時点で)を問うことになります。それがテクニックかと言われればそうなんでしょうね。論理として筋が通ってることだけ問われることになります。筆者の想いなんてどうでも良く、論理記号に当てはめてしまえば筆者自身も「そんなはずじゃなかった!」ということになります。話せば分かるなんてことは同じ論理を共有していないと成り立ちません。ファンタジーとは共有できないことに注意が必要です。この場合は圧倒的な客観性を求められます。
学校での教え方もだいぶムラがあるなと感じます。とある先生に習うとぜんぜん違う考え方をしていて、模試とかになるとなるほど、この考え方がしっくりくるなと思った反面、だいたいの先生の授業は割と主観的で模試なんかだとぜんぜん点数がとれないようになっていました。定期テストは教える先生が作るので当然、復習していれば点数が取れます。実際に私は模試では(古文が足をかなり引っ張っていたものの)全国的に見てもだいぶよい成績だったのですが定期テストはずっとさっぱりでした。
言葉を論理に置き換えようとするといい練習問題があります。数学の文章問題です。あの時と同じ考え方をして、式を立て、答えを出すのです。定理はないので文章の中から定理を探す、というところは少し違いますが。