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利休忌に寄せて

茶道も愛するロックンロール三輪そうめんです。
茶道も戦国の世においてはロックンロールではなかったかと、そのスターこそ千利休居士だったと思いを募らす今日この頃です。

と、言うのも千家の祖、千利休の命日は旧暦2月28日のため、ざっくり3月の末に利休忌を催すことが多いのです。

利休さんは菜の花を愛したと伝わっています。床の間に供えるのも菜の花と供茶。
簡素な茶室に黄色の優しい光が点るようです。

菜の花というと、朧月夜の歌を思いだします。


 菜の花畑に入り日薄れ~🎵


日本の山里の牧歌的な風景という印象が強いですよね。そんな素朴な花を愛した利休さん。
これをわびさびの心と理解している人が多いようです。

さて、当時の菜の花とはどういうものなのかを考えてみましょう。


利休さんの生まれ育った堺は貿易の盛んな都市でした。中国からもっと遠くの国からもさまざまな海外の物品が取引され触れることも日常であったでしょう。
その中には『菜種』があり、戦国時代には菜種から抽出した油がそれまでの荏胡麻油よりも優れた燈明油だったため急速に普及していくことになりました。堺は菜種の産地としても栄えたのです。

現代とは感覚が違いますが、石油と同じくらいのイメージでいいです。
油を扱うものは大きな富が生まれました。そのため、荏胡麻油を扱った大山崎商人の権益を解体しようと、織田信長は楽市楽座の政策で試みたりもしています。

利休さんが生きたのは、荏胡麻油から菜種油へ取って替わった過渡期でした。さらに採取の中心地であったのが大阪や堺でした。

そんなことを考えると菜の花の意味も変わってみえます。

牧歌的ではなく、菜の花畑の光景は新時代の幕開けの象徴とみえてきます。

油だけでなく、足利氏の政権が終わり織田信長から豊臣秀吉の時代を駆け抜けた利休さん。彼の人生とリンクしてくるように思いました。

利休さんが大成したという茶の湯はこれまでの絢爛豪華な室礼とは違う、茶室は質素でほの暗く侘しいものでした。さらに畳は平らでどの身分でも同じ高さに座るという当時としては考えられないデザイン。
織田信長はそんな常軌を逸したアバンギャルドな茶の湯に心惹かれたのだと思います。

黒くて小さな掌に収まる茶碗、竹を切っただけの花入、到来ものの木綿の千鳥格子のこれも白黒の生地を用いた仕覆(茶入れの袋)
均整の取れた釜や様々な道具たち。利休のプロデュースは数しれません。
そしてそれらは今の私にとってはモダンとしか言いようのないセンスです。

利休さんにしろ信長公にしろ、あの当時彼等は共通の何かを見ていたんじゃないかと想像します。

アバンギャルドな思想家で強かな人だった。茶の湯で時代を変えてやるくらいの気概もあったのでは。
利休さんの真の姿はそうだったと思います。

今の世でも、茶の湯は決して古臭く堅苦しいものではない。新しい息吹を感じる道です。
時折、茶湯についても呟きたいと思います。

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