ニヤーズィー・ムスリー『詩集』(2)
195番
私は思っていた、私にはこの世界に一人も友がいないと。
私は私を捨てたのだ。見渡せば、神以外の誰もいない。
自我からの解放を成し遂げると、「私」は無くなり、神と一体化する。分離した個が集まったものだった世界が、神の存在が偏在する、一に統合された世界に見えるようになる。
あらゆるものを見ては思っていた、棘はあるのに薔薇がない。
今は世界がすべて薔薇園になって、棘はひとつ残らず消え去った。
何を見ても、欠陥が目についてしまう。修業を終えた今は、目の前に広がる世界が薔薇園のごとく美しく見える。欠陥を粗探しすることから、あらゆるものの内に在る完全性を探す人になった。
四六時中、涙は途切れず、心は悲痛に泣いていた。
一体なにが起きたのか、ああ!という声と共に悲しみは無くなった。
「私」と「あなた」が常に分離された世界は悲しみに満ちている。「私」の束縛から解放された瞬間、何が起きたかも分からないうちに涙は止まり、悲しみは一掃される。
多は去って、一が来て、親愛なる御方と対になる。
全世界はすべて真理そのものになり、街も市場も残っていない。
個々の存在が乱立する多の世界は消えて、一なる神の存在だけが見える。常に神の存在とある者にとって、この世界に在るのは真理だけであり、それを悟った今、街も市場もそれ自体で存在しているようにはもう見えない。
宗教と教義、慣行と称賛のすべては宙に飛散したのだ。
おお、ニヤーズィーよ、おまえを縛る盲信の鎖はもう無い。
宗教は本来人々を分断するものではないのに、宗教やあらゆる教え、慣行、称賛(あるいは批判)によって人々の間に境界がつくられ、優劣がつけられていく。神と一体化した者にとって宗教は本来の意味をとり戻し、彼はあらゆる境界から解放されるのだ。
この詩はイラーヒーとしても有名↓
わたしも繰り返し聞いている、大好きな詩のうちのひとつ。
スーフィズムの精神的鍛練の前後の状況、修行者当人の目にうつる光景の変化がありありと伝わってくる。
悲しみから喜びへ、とげとげの世界から薔薇の広がる世界へ。心象が移り変わる。
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