長崎の旅(2)
②新地中華街から出島へ
まずどこへ行くべきか迷った末、宿泊先から近かった中華街から見ることに。ちゃんぽんは中華なのか?と思いながら。
ビルにはりつけられている翁がかわいい。
出島へむかう途中に出会った、南蛮えびす像。コスモポリタンの面影を感じる。かわいい。
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そして、出島へ。
\橋を越えた先に見えるのが出島である!/
以下、パンフレットにかかれていることを要約↓
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・1636年、徳川幕府の命により、長崎の25人の有力な町人が出資して出島が築造される。街の中で暮らしていたポルトガル人を収容し、貿易の掌握とキリスト教の広まりを防ぐ仕組みが完成。
・しかし、その翌年島原・天草一揆が起こり、1639年ポルトガル船の来航は禁じられることに。
・そののち当時平戸(※)で貿易をしていたオランダの商館が出島に移され、以後、幕末まで日蘭交流は続いた。
(※)平戸もすごい
・出島は日本とヨーロッパ間の唯一の貿易地、蘭学をはじめ、日本の近代化に必要な情報の発信地として重要な役割を果たす。
・1859年以降は通称条約に基づき横浜や函館でも海外貿易が行われるように。長崎でも貿易の中心が出島から、現在のグラバー園周辺の外国人居留地へと移り、次第に都市の中に埋没した出島は扇の形を失っていく。
・1951年、出島の復元計画が始動。もともと民間の所有だった出島の公有化に長崎市は50年の歳月をかけて取り組む。
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お侍さんが迎えてくれます。
鎖国期(1820年頃)・幕末(1860年代)・明治期(洋風建物)という、異なる時代・様式の建物がそれぞれ復元されている。展示がとにかく充実。全然見終わらないのだ!
特に印象的だったのはカピタン(商館長)部屋。
見たこともない料理が畳の上におかれた豪華な食卓にならぶ。
一体どうやって食べるのだろう、と思いながら。
これもごちそうのひとつらしい。
“閉ざされた出島の食文化”は、当時の日本では見られないような独特のものだったとか。
「オランダ人たちの自国の食文化が取引を行っていたアジア諸国の食材・料理人たちと融合し、出島独特の献立が食卓に並びました」という説明も。なんだかとても興味深い。
ほかにもこんな説明が案内書に書かれていた↓
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出島の商館員達は、一日2回、昼と夜にカピタン部屋に集まって食事をしていました。普段はジャガイモやパンなどの炭水化物とトリやエビ、そのほかニンジンなどの野菜といった質素なメニューでした。復元されたカピタン部屋では、禁教の時代に秘かにクリスマスを祝った「オランダ冬至」という宴席で出された豪華なディナーを再現しています。
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出島は異教徒の外国人を「閉じ込める」空間として、閉鎖的なイメージがあったけど、そこかしこに生活をたのしむ住人たちの心や豊かな文化の芽生えが感じられた。住人の食べたものが発掘調査で明らかにされている様などを知って、人間はどこにいても生活をするものだと思った。
オランダ商館員の部屋。障子にかかる蝋燭のオーナメントがステキ。
壁紙の唐紙もステキ。
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気が付いたら日が沈んでいた。
出島を出ると、いっきにタイムスリップしたみたいな気持ちになった。
さらにネオンがきらめく飲食街へ向かうことに。
食文化の展示に夢中になっていたからか、すごくお腹が減っていた。
その晩は、「オランダ鍋」を食べた。出島で見たような料理ではなかったのでちょっと安心した。
オランダ人にも食べさせたい「オランダ鍋」。
長崎には美味しいものがまだまだいっぱいあるような気がして、わくわくした。そして、その予想は当たっていた。
(つづく)
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