桜の花びら咲くころは
さて、この10年間をどう表現したらいいものか、最近ふとしたときに考えている。
結婚して子どもが産まれて働く母となり、次男坊を空に見送って自分も危うく送られそうになったところを間一髪助けてもらって、そのあとに末っ子が産まれた。
その間も淡々と日々は過ぎていて、当たり前だけれど一瞬たりとも時間は止まらず、とにかく目の前のことをコツコツ乗り越えていたら10年が経っていた。えらそうに言っているが、要はただ日常をとにかく回していた、それだけである。
相変わらず、今日も私は働く母だ。
子どもたちを起こし、ご飯を食べさせ、支度を整えて長男の手を握り無事に学校にたどり着くよう念をこめて(学校は目の前だけど)先に家を出て、末っ子を保育園に送り届けて出勤する。
4月になったら末っ子が小学生になるので、この生活もあと少しだ。これからもいろいろ大変なことはあるだろうけれど、今よりは多少肩の力が抜けるのではないかと思っている。
雨の日も風の日も雪の日も保育園に通い、働き続けたこの10年間よりは。
なのに、なんだか手放しで喜べない、かといって寂しいわけでもない。この感情はいったいなんだろう。
卒業式の向こう側、のようだ。
春からの新生活を想像したときに、その世界のあやふやさにそわそわする、ひどく落ち着かないあの感じに似ている。
まるでこの10年間がぽっかり空白だったような、何も築けていない時間だったような気がしてきて、その新しい一歩を踏み出すのがものすごく心許ない。もちろん楽しみではあるけれど。
後ろに誰も乗っていない自転車を漕いで、一人でバスに乗って、保育園に寄ることなく出勤する。あれだけ憧れていた世界がこんなにも足元がおぼつかないものだったなんて、人生は分からない。
というか、実は子どもたちに甘えていたのは自分なんだと思い知らされて恥ずかしい。
いい歳して、ねえ?
というわけで、春からは新生活である。
10年分の歳を重ね、傷も風邪も治りは遅いし疲れは取れにくいし、その反面子どもたちを叱る声ばかりが育っているこの私が。
我ながら頼りないと思うが、それでもなんとかここから先を歩いていかなくてはならない。途切れず働き続けてこれたこととか、親子で大好きだった保育園とか出会った人たち、そういう宝物をギュッと握りしめて。
そんな私の気持ちなどおかまいなしに、子どもたちは自分の力で成長してきましたよ、みたいな顔をしてどんどん大きくなるのだろう。それはとても、きっととても幸せなことだ。
私にできるのはせいぜい彼らに背中を見せるくらいで、でも考えてみればずっとそうだったじゃないか、と気がつく。何も変わらない。
先日、同僚に「お子さんに怒るイメージがないです、おおらかなお母さんって感じ」と言われた。まあ優しいとは言わないがおおらか、ならまあまあイメージ通りなんじゃない?なんてまんざらでもなく独りごちて、そんなこと言われたよ、と子どもたちに話してみた。
「いやいや…いやいや…ねえ…?」
「いやいや〜だよねえー」
とクスクスニヤニヤ笑う兄弟を前にして、おー上等だ、と心を決めた。君たちは勝手に走っていけばいい、ただし私は絶対に見失わない。いいか、絶対だ。そして、君たちが振り返ったときは誰よりも楽しそうに人生を生きている。その背中を見せつけてやる。
そんな母に、私はなる。
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