はしがき
私も以前、少しだけ何切るを作っていたことがあります。ただ、最近はあまり作ってないので一旦、過去作をまとめておこうと思いました。
誰かの作った何切るがタイムラインに流れてくることも珍しくなくなりましたが、その作品がどんなアイデアで作られたのかという話はあまり聞きません。
これは市販の本でも変わらないと思います。その何切るの解答が正解である理由は滔々と書き連ねてありますが、これこれこういう構想で、こういう手筋を成立させようとしたとか、従来からある理論のおかしさを提起したかったとか、本当に何も切れないような何切るを見てみたかったとかそういう話には出会いません。
なので、まず自分がやってみようと思い立ち、作ったときに何を考えていたのかコメントを付けてみました。
出題
問1
問2
問3
問4
問5
問6
問7
問8
問9
問10
問11
問12
問13
問14
問15
問16
問17
問18
問19
問20
問21
問22
問23
問24
問25
問26
問27
問28
問29
問30
問31
問32
問33
解題
問1 22224m223p222334s ドラ4p
問2 46678m5666p34568s ドラ7s
問3 1112m122234p1355s ドラ2m
問4 1333m1234678p112s ドラ2m
問5 567m4456p4577899s ドラ8s
問6 222334m13556p123s ドラ7p
問7 2333577p3357789s ドラ2p
問8 5678m3455678p788s ドラ5m
https://nnkr.jp/7606 これもそのうちの一つです。
問9 2344445m223p3456s ドラ6s
問10 2345m3445p234455s ドラ6p
問11 6778m5678p567788s ドラ7m
ちなみにプロトタイプはこれ。moji君がこれの4年後に似たような鳳東だかの何切る(334456mになってる形)を挙げていたのはなぜか覚えている。
プロトタイプを7巡目時点でシミュレーターにかけると打7pが一位で、打5mとの差はなんと親で800点近くなる。
問12 112334m2345p2344s ドラ東
問13 67889m677899p899s ドラ8s
問14 5567m778p3456678s ドラ東
問15 3445m3455p345667s ドラ6p
問16 67788m899p788899s ドラ8p
問17 344m1234p1123345s ドラ5m
問18 7899m1236778p778s ドラ5p
問19 4556m4456p445789s ドラ3m
問20 34456788m4r56p455s ドラ5s
問21 556m678p34456778s ドラ3s
問22 34467889m456667s ドラ8s
問23 57m567p445567788s ドラ6s
問24 224667m34677p234s ドラ3m
問25 3456m5667p116678s ドラ北
問26 12234m12235p2345s ドラ4p
問27 67889m122344667p ドラ3p
問28 778m6789p5667889s ドラ西
問29 r56m456p346677788s ドラ7m
問30 33456677p223334s ドラ2s
問31 455679m67789p789s ドラ9m
問32 223456m122333p89s ドラ3p
問33 45579m123445678s ドラ4m
あとがき
・考える喜び
こんな金にもならないことを延々と、時には同じ問題に5日も6日も齧りついて、なぜこんなに没頭しているのか自分でもわからない、それが私にとっての何切るです。
詩人の山之口獏はこんな言葉を残しています。
借金に借金を重ね、極貧生活を送った人の言葉です。
歯を食いしばって貧乏をユーモアに換えた獏さんの姿勢には遠く及びませんが、巷間に流布する断片的な主張同士を衝突させ、「そうは言うけどこの場合どうすんの」と問うときの「この場合」を出来るだけ洗練された形で示す作業。ときに批判を含んだ問いかけを、具体的な形で表現する楽しさ。
理論と理論の間のズレ、理論と現実とのズレ、私の理論の理解のズレ。矛盾と呼ぶには大げさな、しかし飲み下すには納まりの悪い、魚の骨のようなわだかまりを、具体的に示す楽しさこそ文化発展の原動力なのではないかと思うくらいです。
貘はこう締めくくります。
何切るを作るのは生きることだなどと大仰に構えずとも、書かずにはいられない対象は誰しもあって、人によってはそれが詩だったり曲だったり、あるいは歌うことだったり、私はたまたま平面何切るを作ることでバランスを求めていたのだと思います。
無意味だの役に立たないなどと言われる平面何切るですが、そもそもの麻雀に意味があるのか、あなたの存在に意味はあるのかと問われたら、そう言う人はどう答えるのでしょう。結局は、楽しいだけで十分なのではないかと私は思うようになりました。
・良い何切るとは何か
「良い何切るとは何か」というテーマはたびたびタイムラインで議論されてきました。
私も以前は各打牌候補のシミュレーターの数値の差が少ないもの、簡単に言えばできるだけ打牌候補が割れる問題こそが良問だと考えていました(これらの作品は主にその頃の名残りです)。
正確に表現すれば、いくつかの打牌根拠(理論)が競合して判断が難しくなっているような問題を良い問題だと思っていました。
しかし現在は下記の意見にも概ね賛成です。
これを気付かない問題と呼ぶことにします。
結局、割れる問題になるような細かい打牌の差はほとんど結果に反映しないというか、反映しているのかもしれないけど認識ができません。そこにリソースを割くよりも、頻出する押引きやベタ降り手順、基本的な形を間違えないことの方が実力に直結するのは当然です。
各種のシミュレーターが発達した昨今ですが、「人間がぱっと見たときにこれを切りそうだなと思うかどうか」を人間自身が判断するというのは極めて人間的な作業なのかもしれません。
・言葉は世界を見る眼鏡
そもそも、人間には世界というものはどのように見えているのでしょうか。
アインシュタインは「何が観察できるかは理論で決まる」という言葉を残しました。
この言葉を麻雀で例えるなら、224466pというピンズの塊を見せられた人が反射的に「4p切りかな?」と予測するようなものだと思います。
「トビトイツ」という言葉を理解している人が、反射的に「真ん中を切るべきである」と判断をしているということです。現実を理論にあてはめているわけです。
人間は虚心に現実を見ることができないのです。どう言い繕っても何かしらの理論によって取捨選択をしています。この場合の「理論」は、「先入観」あるいは「方法」と言い換えても良いと思います。具体的には「言葉」のことです。
こと先入観というと反射的に悪いものだという先入観が働くかもしれませんが、先入観を持って物を見ること自体に良いも悪いもないというか、そもそも先入観がなければ対象を識別できません。
机の上の「本」や「ペン」を見て、本やペンといった言葉なしに「それ」を区別できないからです。言葉がなければ、なんとなく混然一体となった世界が眼前に広がるだけです。人間は母語という透明なメガネを通して世界を見ているのです。大事なことは、自分は透明であってもレンズを通して世界を見ているということを忘れないことです。
反面、現実は理論によって画然と整理されえないものでもあります。どうやってもどこかではみ出してきます。また、言葉と言葉の境界もボヤけています。人間はそれを便宜的に言葉で区切っているのです。
なので、「理論」に疑問を突き付けて修正を迫る何切るは理論の深化に役立つし、「理論」の適用時に見過ごされやすい条件を注意する何切るは現実への当てはめに役立つと思います。
では、「どちらも役に立つので良問です」で話が終わりなのでしょうか。
・大事なことは何か
大事なことは、現実に存在する、ぱっと見で三角形のようにも見えるけどよく見たら四角形のような、でもよく考えたら丸くもみえる幻想的な図形に対して、これはこれこれこうだから三角形の公式を使うべきだと自分で判断できるようになることです。
何が言いたいのかというと、画然とは整理されえない現実に対して、覚えた規範を思考せずにそのまま当てはめる、量産型と揶揄される姿勢が問題だということです。
勉強とはこのあてはめができるように解釈の練習をすることです。三角形の面積の公式を覚えるのはその準備でしかありません。覚えるだけでは勉強ではないのです。これはどんなことでもそうだと思います。
この姿勢が改まらない限り、立体何切るだろうと、大差の何切るだろうと解いたところで実力の向上に繋がらない以上は役には立ちません。
なのでこの種の議論について回る「平面だから」とか、「微差だから」という部分は話の核心ではないのではないかと私は思ってます。
まあ、そもそも何切るは考えているだけで楽しいので別に役に立つ必要もありませんが。
・付記
本作は悩ましい形ばかりを取り上げたので、大抵は正解が1つに定まるほど有利になってはおらず、2つあるいは3つのうちのどれを切っても大して差の出ない問題が結構あります。
ただ、中には有意な差のあるものもあります。そういう問題はあえてそのままにしました。(※pystyleさんの説明によると50点未満は差がなく、数十点というのは裏ドラ表示牌が1枚多いかどうか程度の差しかない)。
精査された詰将棋には一通りの詰み手順がありますが、実戦の面白さは詰むかどうかわからないところにあります。何を切っても同じに見えるけど、いくつかは有利な解のようなものがある方が面白いと思ったからです。
人生でこれほど何切るに没頭することはおそらくもうないと思いますが、青春の一里塚としてここに記しておきます。