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絵は写真に敵わないと、たかを括っていた。
絵を描くことは好きだった。
子供の頃の想像絵画が、県のコンクールで賞をもら得たこともあった。
楽しい空想を絵に落とし込むことに長けていただけだった。
風景画になると、陰陽の表現ができずに、良く見て描きなさいと怒られた。
すぐに絵を描くことが好きじゃなくなった。
褒められたかどうかで好きか嫌いか決まるくらい、単純で、純粋だった。
大学生の時、カメラが欲しいと思った。良くあることだ。
しかしお金がなかったから、友達に触らせてもらう程度であった。
その頃に疑問を抱いた。
一瞬で微細な風景を切り取れる写真が、絵画に負けることがあるのか。
持ってもないのにカメラ側になって、必要もないのに絵画を見下したイタイ時期がある。
子供の頃に、見放なされたような気持ちを取り返したかったのだろうか。
遅めの反抗期であった。
ある時、職場に配下されたパンフレットを見て、非常にそそられた。
ピカソ・インパクトと銘打った企画展の奇妙で色鮮やかな絵に心を惹かれた。
私はそこでキュビスムに出会った。
私なりの言葉で説明すると、キュビスムとは、「物を絵の中で分解して再構築する」技法で描くことである。
時に物体を、人を、風景を、何も考えず見れば乱暴に区切られた線から、一枚の絵画として解釈する。
小難しいことを考えがちな私にピッタリだった。
久々に仕事以外で理解することに頭をフル回転させることが喜びでもあった。
これが初めての美術館、見方も何もわからないが、少しの解説をじっくり読み、一つ一つの絵と対峙した経験は何事にも優った。
こんなにも自由なことがあっていいのかと。
これが芸術というものかと。
そして、恥じた。
絵画は写真に劣ると思っていたが、この表現は、この自由さは写真にはできないと反省した。
鏡でも置かない限り、写真は被写体の物理的な裏側は撮れない。
キュビスムなら、物体を分解することで、裏側まで見せることができる。
芸術ってすげぇと、それから美術館を巡ることにハマった。
こんな話をすると、大抵は何も理解されない。
多くの人が知って入るゲルニカを例にとっても、なかなか堂々伝えるのが難しい。
美術館巡りが好きという人はいるが、大抵は印象派に行き着く。
いつかキュビスムが一番好きな人と巡り会えたら、気がすむまで一緒に絵を眺めたい。
ちなみに昨年、国立西洋美術館でキュビスム展が開かれた。
それはもう心を躍らせて、早々に足を運んだ。
長い歴史の中でキュビスム運動は20年となかったらしい。
その中でも、初期の7年程度、純粋に物体を分解して再構築する絵画は非常に良かった。
しかし、後になるにつれ、本来の意味合いよりも表現方法としてのキュビスムが活発となっていく流れに感じ、美術館をでることには落ち込んでいた。
ただでさえニッチなキュビスムの中でも初期の絵画が好きなんて、一体誰が共感してくれるんだと。
自分が好きなのだからそれでいいのだが、思い出が美化され期待値をあげすぎた故に、凹んでしまった。
いつか最初に見たパンフレットの絵を再び見て、凝り固まった嗜好を、分解し再構築して、広い捉え方で再び美術を楽しみたい。