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小豆洗いに告ぐ

僕は妖怪なのかもしれない、と自虐めいた冗談を言っていた時期がありました。何をやっていても、ふと、それは「自分がやるべきこと」なのかを疑ってしまう、「なりたい自分」を模索してしまう。そうなると随分と不安になってきて、僕には優しい友人が何人かおりましたから、彼らをあたかも行政サービスセンターかのように、ひたすら自分の悩みをぶちまけました。それで勝手に納得したかと思えば、帰り道、ハイテンションな音楽を聴きながら全能感に酔いしれて、「明日も頑張ろう」と小さくジャンプするのです。そうやって何とか自分という存在を保っていたのだと思います。

アイデンティティを確立しよう。
なりたい自分、を見失わないようにしよう。
自分の人生に一貫性を持とう。

これらの言葉は全部、妖怪達の囁きでした。
砂かけババアは、砂をかけていないと砂かけババアたり得ず、小豆洗いは大豆を洗い始めた途端、存在そのものが変質してしまう。いや本当は”大豆洗い”だろうが”コーヒー豆洗い”になろうが、もう全部やめてウーバーの配達員になったとしても、「お前はお前」であるはずなのに、自分の存在そのものが消えてしまいそうで、不安になって、小豆を洗い続けてしまう。彼ら彼女らは、ラッパーが良く「初めてMCバトルを見て人生が変わったあの日」を思い出し「俺はここで終わるわけにはいかない」と歌にするように、「なんとなく小豆を洗っていたらしっくりきたあの日」をもう思い出せもしないのに無理やり自分の出発点にして、「私はここで小豆を手放すわけにはいかない」と不気味な音を立て続ける。

対して考えなしの臆病者・人間は、自分の存在意義すら説明できないまま、ゆらゆらと何となく生きている。それで幸せそうにしている。妖怪たちは、なんでお前らはそれで平気なのかと、必死に私のように苦しんでくれ、とチラチラ姿を現すんだ。僕達は妖怪と人間が混在する世界に生きている。


愛してやまない友人がいる。
この間、なんだかひどく顔を見たくなって、夜10時、彼の最寄りまでゆらゆらと向かった。ちゃんと会えた。宅地に囲まれた小さな公園のベンチに腰掛けて、空に向かって言葉を吐き合った。
別れ際、僕が彼に対して言わなくてはいけない言葉は、「I love you. 」と「健康に気をつけて」しか見つからなかった。
彼は「君がどうなろうと、どうせ君とは話すよ」と言った。
僕は彼のおかげで人間になれたのだと気づいた。

肯定も否定もせず、ただ「お前はお前」だと言ってくれる友があること。それが真理も普遍も正義も全部幻想だって、そんなの丸ごと分かっている世界で、何よりも僕だけの絶対になる。

僕達は、生物として限られたキャパシティで生きざるを得ない以上、必ず「お前はお前」なのである。それは「お前は人間」ということでもある。

成功なんてしなくて良いし、なりたい自分なんてなくて良い。勿論確立されたアイデンティティなんて近代の罠だし、独りの人間がどう生きようが、明日死んじまおうが、世界は通常運転を休まない。

僕の思考は、僕の自己現象でしかない。難しいことを考えて、学問的な言葉を覚えてきた自分に酔っているだけで、僕の気分が苦しいのは、民主主義が至らないせいでも、日本の人文系が衰退の一途を辿っているからでもなく、ただ梅雨で外がジメジメしてるだけの理由かもしれない。

人間になるということは、なにもいえなくなっていく、ことである。
自分の体験に即した歌詞がクソつまらなくなっていくことである。

しかし、「要は何も言ってない」けれど紡がれていく言葉が美しい。

波ひとつひとつがぼくのつま先ではるかな旅を終えて崩れる

(木下達也, オールアラウンドユー)

「生きる」というのは、意味もなく、意義もなく、ただ適当に言葉を吐いて、手と足を動かして、誰かの瞳に魅せられ、頬に触れ、その温もりに心臓が脈打ち、「明日もただ生きていよう」と素直に心が感じ続けること、なんだよ。

風に乗って、小豆を洗う音が聞こえたら、そう、小声で教えてあげることにしている。



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