「今」みたいな「memo」
memoみたいな文章を、noteに書き記しているとき、僕は何をしているんだろうという気分になる。あまり何が何だか分からない。僕は常々、善く生きたいと思っていて、するとメモ的にノートを使うことの是非がひどく気になってきた。少し考えてみよう。
メモ、と言われて真っ先に思い浮かぶのは、例えば電話越しに聞いたアドレスの殴り書き、お目当ての本のコード、隣の人のタイムカードを間違って切ってしまったときの謝罪文。なるほど、我々は付箋や紙切れに数秒で読み取れる情報を残したもの、をメモと呼んでいるらしい。それは紙飛行機を飛ばすみたいにフワっとほんの短い時空を浮遊して、「今の自分」でない誰かに届くものであり、くしゃくしゃに丸められて捨てられることが確定した存在でもある。きっと君からの「手紙」を「メモ」と呼んだら怒られてしまうくらいに、「メモ」はどうしようもなくそっけない。
でも、今までの話に矛盾するみたいだけれど、残るメモだって僕は知っている。それはノートに書かれたメモである、というか僕達はいつもメモの集合体、メモのための余白としてノートを使っている。家の中を整理していると、棚の奥から大量のノートが見つかって、しかもどれも半分くらいは余白が残っていて捨てられずにいる、なんてのは日常茶飯事。なんだか懐かしくなって「メモの集合体」としてのノートを開いてみたりする。
しかし、たくさんのメモが束になるとノートとして現われてくるのか、と言われれば、「でも最初からノートはノートだし、ノートにメモしているという順序が正しいのであって」ということになりそうだ。メモはそのときそのときの「そのとき」以上でも以下でもなく、「切り抜き」的でもあって、その集合体をノートとして俯瞰してみると、すなわちペラペラめくってみると時間の流れや一貫性や、逆に散らばりが感じられたりする。「そのとき」にしか読めない文字が紙面を遊んでいて、恐らく「さ」「き」「そ」であったはずの記号が、入れ替わり立ち代わり意味を乱してくる。メモの1つ1つは、「くしゃくしゃに丸められて捨てられる」存在であるのに、ノートにまとめられた途端、愛情すら湧いて出る。本当は捨ててしまうのが何だか名残惜しくて、棚の奥にそっと戻してしまうのかもしれない。
ノートは、さながら人間のようである。
人間はほんの小さな情報量でできた「今」の積み重ねでしかない。それは「くしゃくしゃに丸められて捨てられ」てもおかしくないような、ミスドは質量なき幻想・甘くてピースフルなポンデリングを提供しているのであり、間違ってでもイートインして店を出るとき「ごちそうさまでした」等”(生きていくための)食物”すなわち現実を意識させる言葉を用いてはならないのだ!などと支離滅裂に思考する、本当にくだらなくて何の役にも立たない「今」だ。しかしその記憶を”僕”として俯瞰し、キャンパス近くのミスドに通った大学時代のひと時としてみると、いつかは愛おしくなるのかもしれず(あんまりならないかもしれない)、また僕達人間はお互いのノートを見せ合うように、なんでもない思い出話や矛盾だらけで訳の分からなくなったエピソードトークを披露しあって会話し、喜びを得るのである。余白にメモを殴り書くように毎日を生きて、表紙に名前だけが書かれたノートを少しずつ埋めていく。それは何冊になるのか分からないし、ノリだがテープだかでくっ付けて一冊にしてしまっても良い。「青春編」だの「三十路編」だの、意識的に区切ることもあるだろうし、それが恥ずかしくなってゴシゴシタイトルを消す日だってある。それもノートにそっと書かれる。
memoみたいな文章を、noteに書き記しているとき、僕は何をしているんだろうという気分になる。あまり何が何だか分からない。僕は常々、善く生きたいと思っていて、でも何故善く生きたいのかも、「今」の自分がそうあるのかも分からない。ざっと書いた文章を読み直して、はぁ…?となるように、風呂場で1日を思い返して、は?となる。ハッとなるときもあるし、気分が落ち込んでしょんぼりするときもある。でも例えば高校卒業するときとか、あれだけずっと苦しかったのに案外良かったんじゃないかって思ったし、たぶん一生大事にできる「今」の連続として、そっと心の片隅にしまわれている。
どうしようもない「今」を生きているとき、僕は何をしているんだろうという気分になる。あまり何が何だか分からない。けれど、あんまりこのどうしようもない「今」をやめる気にはならないし、たぶんずっとそうやって生きていくんだと思う。そして明日もきっとmemoみたいな文章を、noteに書き記すんだろう。