Free Hugs
言葉という言葉に飽きている。
というより、“言葉”という言葉に飽きている。
僕には高校時代から長く使い古してきた言葉が幾つかある。言葉、物語、喜びの共有、共同性、承認、民主主義…。そのときそのときの課題意識、流行り、気まぐれによって多分に使われ、間違いなく僕自身を構成している言葉たちだ。思い入れもある。思い出もある。
しかし、もう、これらの言葉について、あまり考えたくないのだ。彼ら“いつメン”を見飽きてしまった。言い飽きてしまった。僕自身、日々成長しているかはともかく、少なくとも変化はしているのだが、その本質は“さっき呟いていた言葉に飽きる”ことにあるのではないか、とすら思われる。結果、ここ最近僕は“書くこと”から離れていた。日々既存の言葉には飽きていくのに、なかなか新しい“流行語”と出会えなかったのだ。とにかく、僕はもう、例えば“言葉”について考えたくない。
ところが、である。お気づきの通り、また僕は“言葉”について語ろうとしている、否、それ以外語るべきことが思い付かないのである。流石にそろそろ何か書かないと、なにか僕という人間はダメになってしまうのではないか、という恐ろしく奇妙な危機感によって、再びキーボードに手を置いている訳だが、なかなか最初の一文が思い付かない。書き出せない。パソコンを開いたまま、アニメを見たり課題を確認したりして、やっと何か書けそうな気分がしてきたので、書き始めてみた。
言葉という言葉に飽きている。
というより、“言葉”という言葉に飽きている。
ああ。ああ。
僕という人間は・・・。囚われている。鼠色の監獄。青空が見たい。
本など捨ててしまった方が良いかもしれない。最近は阿呆のように本を読んで、偉くなった気分。腹が立ってきた。虚しい。どんな話も、結局は言葉。もっと身体を使うべきだろう。こう野性的に。しかし何をすればよいのか分からない。都市に生まれ、都市で育ったのが全部悪い。結局は活字が楽しい。ぐぬぬ、と紙面で、でんぐり返し。
先日、ある人に君は言葉で過去を歪曲する云々言われた。さて、中島敦『文字禍』博士の言葉「書かれなかった事は、無かった事じゃ。」。反省はしております。だからこうして、書くことをやめてきた、のかもしれない。
たぶん誰か、僕のことを抱きしめた方が良いのだ。
きっとそういったことが何より大事。