なぜ働いていないと本が読めなくなるのか
セカイ系を卒業した。
つまり、僕の悩みは世界の悩みではないし、僕にとっての正義は、僕の、僕だけの人生から導き出された、僕にのみ当てはまるものなのだと、身体の底の方で固く信じるようになってしまった。
すると、僕はもう他者と関わることに自信もやる気も持てなくなった。
ただ自分の趣向に従って、自由に生きる。
ウタをウタうように、ただイマ・ココにいる自分を満足させ続ける在り方。
日常だけが続いていく生活。
大学はそれが可能な環境だった。
授業は独り、視界に映る人間の数が一番少ない最前列に座って、ひたすらペン先を走らせる。チャイムがなったらスッと教室から出ていき、図書館の、無数の本棚の間に潜り込んだ。巨人の背中をよじ登るように、ページを一枚一枚めくっていく。ずっとワクワクできた。このまま生きていきたいと思った。たぶん幸せだった。
しかし、問題があった。矛盾があった。
まず一人で悠々自適に本を読んでいたとしても、その活字の正体は、結局人類すなわち他者の思考の蓄積でしかない。そこで語られることに心惹かれている僕は、他者から提示される思いがけない言葉の連続が、やっぱりずっと好物だった。次に、本を読みながら色々考えているうちに、僕の発見を、たまらなく人に話したい、共有したい、そして実践したい、と思うようになった。それはほとんど衝動的な欲求である。それから、「ところで、未来の僕は果たして大丈夫なのだろうか」というふとしたときに浮かび上がる不安に耐えられなくなってきた。趣味嗜好のままに生きることは、明日の自分でさえ何をしているか分からないということだ。それは明日の自分のみぞ知る。でも僕は実際には社会を生きている訳で、今食べているものは当然自分の生産したものじゃないし、だからどこかで金を稼がなければならないことは決まっていて、それは僕のこの道の先に本当にあるだろうか、という問いにどうやっても答えられない。最後に、結局人は社会的動物なのだと気づいた。要は承認が欲しいのだ。今の自分を、常に他の誰かに承認されないと、やっぱりどうしようもできない。なんだか、まともに育ってしまった自分に失望と、あと少しだけ安心を覚えた。
やっぱり人間は、結局他者をどうこうしたい生き物なのではないか。そして中長期的な目標や理想を持ち合わせていないと、足元が危うすぎて、うやうや本など読んでいられないのではないか。それから本当に不幸なことに、僕は、社会哲学や政治や共同体形成、日本の生活史に知的関心を向けざるを得ない。これは誰の嫌がらせなのか。
いや、純粋透明な瞳で「日本を変えたいんです」って言ってる奴は実際ヤバい。それは変わらない。でも、僕は日常を確保したうえで、フラッとで良い、社会と関わりたい。人間臭くて恐ろしくつまらないが、正直言うとそういうことになりそうだ。僕は結局”社会の人”だった。
しかしここで、振出しに戻る。
セカイ系を卒業した今、自分の悩みを解決するように他者と向き合うことはできない。他者に押し付けられるような大きな物語も持ち合わせていない。もう僕一人では、あまりにゲームのルールが破壊されすぎていて、すなわち全てが相対化されすぎていて、動き出すことができない。
ゲームのある場所に行かなければならない。ラディカルな発想が自明に許されなさそうな、クリティカルシンキングとか言っちゃう方向にやっぱり流されていくしかない。すなわち、個人同士が個人のままで社交する”仲間”集団ではなく、個人のアイデンティティそのものがその空間内では書き換えられ、明確にゲームが設定されている組織、閉ざされた世界が、僕には必要だ。
以上の推論から、AIがどんなに幅を利かせていても、人間は学校も会社も行政組織も手放さないと思うのです。
さて、ところで皆さんは、”社会人”になる決心が付きましたか。