お客がお客さんになってお客様になる。接客用語を言語統制で考える。
学部生のとき、卒論として本屋と本屋の"客"を分析したことがある。本屋の意義は、"客"によって定義されるものであるのではないか、という仮説のもと、どのような場所として思われていたのかインタビューをしてきた。
在学時のアルバイトでは、書店員、焼肉屋ホールスタッフ、イベント受付、ビールバースタッフなどtoCの仕事が多かった。卒業後はラーメン屋として"お客さん"が、来てくれる店にするべく色々やってみた。"お客さん"には、近くに住んでるおばぁちゃんや、農家のおっちゃん、建設会社のドンもいた。
ラーメン屋を明け渡し、ドラッグストア店員となった。人口減少、物価高騰の世の中で"お客様"から選ばれる店になっていくにはどんなことが必要なのか、そもそも基本的なことができてなくないか……などなど悩ましくも楽しい日々を送っている。
ドラッグストア店員になったある日、店長が「お客様にとって買い物しやすい店を……」と話していたときのことだ。この「お客様にとって……」という言葉がひっかかった。曖昧な言い方になるが、背筋が伸びる、「自分もちゃんと向き合おう」という気にさせられたのだ。
今までも、小売や飲食など所謂"客商売"をしてきた。しかし、"お客様"のフレーズを聞いて、「ちゃんとしなきゃ」と思えたとき、小売業者としての自覚が強まった感じている。
こちらのエッセイでは、バックヤードルールとして言葉遣いが徹底されていた店のことが書かれていた。以下は文中で挙げられていた例である。
お客さん
→お客様テーブル○番
→テーブル○番様オーダー入りました
→オーダーいただきましたありがとうございました
→いつもありがとうございます
筆者は徹底されたバックヤードルールについて、「飲食業経験者ほど戸惑うような」と感じつつも、「接客に対する意識を単にマニュアル的な技術としてだけではなく、「お客様とは我々にとっていかなる存在なのか」ということを骨身に叩き込ませるための、極めて効果的な手段だったのではないか」と述べている。
接客業では今でも"接客○大用語"なるものが存在する。一般的な"接客7大用語"は以下のようなものである。
いらっしゃいませ
かしこまりました
少々お待ちください
お待たせいたしました
恐れ入ります
ありがとうございます
申し訳ございません
なぜ、接客用語を用いるのかについてこちらの記事では「「接客用語」を使うことで敬意を表し、「あなたを大切にしている」というメッセージを伝え、満足感を得てもらう」ことが、最大のメリットと目的であるとしている。
さらに経営者・サービス管理者視点では、各スタッフの日本語力が高く放っておいても丁寧な接客を行う場合においても、教育・マネジメントの側面から統一した接客用語を設けておく方が、効率的でありサービスレベルも向上するとされている。(例: 新商品の推奨トークを個々人に任せていると、日本語力次第かつ、標準化に時間を要する)
自分は、全てはお客様に満足してもらいサービスによって社のビジョンを達成する(その対価としてお金を得る)ためだと思っている。仕事は全て企業として経営を維持・発展していくために必要な活動である。
自分の口からふいに「お客様」の語がでたとき、「小売業に染まってきている」感があった。思考が、人格が、"小売業者"になってきていると感じた。小売業者としてのアイデンティティが生まれているのではと。
思考を飛躍させてみよう。
接客用語を設けて、従業員にそれを使わせることは、"言論統制"や"言語統制"と言えるのではないか。
言論統制は「国家政策への批判、治安・風紀を乱す主義思想、国家機密、暴動・扇動などが、出版・報道・流布されない」ように行われた。言語統制は大戦中の大日本帝国によって行われた"皇民化教育"の文脈において「日本人意識の涵養」し、「徴兵や植民地支配強化」や「国家に役立つ人材を輩出するため」に行われた。
やや穏やかでない雰囲気が出てきた。
「言語統制 思考統制」で検索してみると、ジョージ・オーウェルについての記事が出てきた。オーウェルは1984で描いたディストピアの共通語(ニュースピーク)を引き合いにだして「「ニュースピーク」は語彙を減らすことで、思考の範囲を縮小させ、政治犯罪を抑制するために作られた言語である」と筆者はオーウェルの思考を整理している。
話を接客用語に戻す。
「お客様が不快にならない」ようにつくられたと考えると、接客用語も「ニュースピーク」のように使えると語彙を減らすようデザインされた言語に見える。接客用語に慣れ親しみすぎることは、組織における個性や多様性を損なうことになるではないだろうか。言語統制(≒接客用語の設定)は大規模な集団を運営するには非常に効率的な方法でありながら、同時に組織からセレンディピティを失わせている。
接客用語を使うことに慣れてきた自分は、どこかアイデンティティのなかに”店員さん”が芽生えつつあることを感じた。わざとらしく声の高さをワントーンあげたとき、ぼくは”店員さん”に近づくのだ。ドラッグストア店員としては成長である、しかし、想定された成長をしたところで、全体のためにはなっていないのではないかも思う。天邪鬼かな。
与えられた接客用語よりも、試行錯誤したオリジナルの言葉のほうがきっと届く。誰も傷つけない接客用語を使い続けると、目の前の相手に深く刺さる言葉の作り方を忘れてしまう。本物はきっと両方使い分けるのだろうけれど、どうも不器用で天邪鬼なぼくは、独自の解釈を加えたくなる。まだまだ”店員さん”にはなれそうにない。