終わるように始まってゆくこと
自分がどこまで「なくてもいい」のかを知っておくのは、難しいけど大事なことだと思う。
「ない」状態から「ある」ようになる時は、いつも必ず、「ない」を終えて「ある」が始まる。
日々は「ある」状態の中で「持ち替えていく」ことが多く、一度「ある」にすると、再び「ない」に戻すのが極めて難しくなることもある。
「ない」は本当に楽だ、わたしにとって、安心で安全な状態を得るには一度すべてを「ない」にするしかなかったように思う。おさがりに慣れ過ぎている。「あるものでいいです、無いならなくて大丈夫です」。そう言って生きてきた。
何も持たないところからのスタートは簡潔だ。始まっていくだけ。
当たり前のように、絶対に「便利になる」「変化がある」と言える。無いよりは良くなる。今よりは良くなる。
それなのに、わたしは「ない」の終わりが惜しい。
この感傷が恋しいからずっと「ない」でいてもいいのだけど。
「ない」ことは、わたしのこれまでを支えてきたのだ。
今のわたしは分かっているんだろう、別に何を持っていようとも、わたしがわたしで「なくなって」しまうことはないんだよ。
「同じかと思ったのに、あなたは違うんだね」と言われて傷ついてきた。同じように「持たない」存在になって、寄り添いたかった。
わたしは特別何かを持ってはないよ。わたしはそれでふつうだよ。
あなたもそれでふつうだ。
何を理由にひとを傷つけるんだろう。誰もなにも欠けてなんかいないんだよ。
傷ついてあげられなくてごめんね。傷ついても平気で生きていてごめんね。
わたしはずっとずっと、関わることのできるすべてのものに寄り添いたかったよ。あなただけじゃなく、すべてのものを、理解したかったよ。
あなただけを理解したいわたしじゃなくてごめんね。
だけどそれがあなたを理解しない理由にはならない。わたしはあなたのことも理解したい。それがだめならあなたがわたしを理解しないんだね。
持たないことはさみしくて安全だ。
さみしくないことは誰かを簡単に傷つける。
何かに対して簡単に無意識になってしまう。
誰のことも傷つけないわたしでいたかったよ。
誰のことも傷つけないわたしをまだ諦めてはいない。他の道を探す。あるなら全部あるのがいいよ。今さみしい誰かに、わたしが寄り添うよりも確実に寄り添えるものを「ある」ようにするには。その方法を毎日探している。
花の散る切なさが好きだと思う。
ずっと抱えていたくても、緑の季節の訪れに、「あなたを待っていたんだよ」と思うのがわたしなのだ。生き生きとしたものを愛している。
きっといいことがあるよ。
さみしさも感傷もなんにも悪いものじゃない。
あなたもいっしょに生きようね。
恐れ入ります。「まだない」です。 ここまで読んでくださって、ありがとうございます。 サポート、ありがとうございます。本当に嬉しいです。 続けてゆくことがお返しの意味になれば、と思います。 わたしのnoteを開いてくれてありがとう。 また見てもらえるよう、がんばります。