リサーチ業界再編!「インサイト産業」のビジネスインパクト
マーケティングリサーチ専門家で構成されるグローバル組織ESOMAR(エソマ)は2020年に、リサーチ業界の業界定義を「インサイト産業」へと変更しました。日本国内でも、最新の『日経業界地図』において、「マーケットリサーチ(インサイト)」が注目業界として取り上げられました。
リサーチ業界に何が起こっているのか、またどのようなビジネスインパクトがあるのか、マーケティングリサーチャーとして長きにわたり業界をけん引してきたトランスコスモス・アナリティクス株式会社 取締役エグゼクティブフェロー、マクロミル総合研究所 所長の萩原雅之氏に解説していただきました。
■注目される新業界
あらゆるビジネスがデータに基づく戦略や意思決定が必要とされるこの時代に、インサイト産業(Insight Industry)という巨大な「業界」が生まれようとしている。就活のバイブルといわれる『日経業界地図』では毎年、冒頭に「注目業界」がセレクトされるのだが、昨年暮れに発売された2023年版ではマーケットリサーチ(インサイト)が「注目業界」として、メタバース、eスポーツ、ベンチャーキャピタルについで4番目に掲載された。重要なのはインサイトという呼び方が併記されていることだ。
この新しい定義によるマーケットリサーチ(インサイト)業界は、マクロミルやニールセンのような従来型の調査会社を中心にした「確立されたマーケットリサーチ」に、データサイエンス専門企業やプラットフォーム企業などの「デジタル技術主導リサーチ」、ガートナーなどの市場分析企業やコンサルティング企業の「レポーティング」というあらたな2つのカテゴリーが加わっている。ここには野村総研などのコンサルティング企業、アドビやセールスフォースなどのデジタルプラットフォーム企業も含まれる。
■マーケティングリサーチのボーダーレス化
この3つの分野で構成されるインサイト業界という新しい考え方を主導したのは、マーケティングリサーチ専門家で構成されるグローバル組織 ESOMAR(エソマ)だ。年1回発行される業界レポート「ESOMAR Global Market Research 2020」において、「マーケットリサーチ企業トップ50」をはじめて「インサイト企業トップ50」へ変更した。あわせて、市場規模も変更され、従来のマーケットリサーチ企業のみを対象とした2018年の473億ドルが、翌2019年には899億ドルに拡大、最新の2021年は1,177億ドル(図表1)である。
マーケティングリサーチは新しい定義を必要としているという共通認識の転換点になったのは、当時P&Gでグローバルマーケティングリサーチの統括ディレクターであったジョアン・ルイス氏による2011年のESOMARカンファレンスの講演だ。ルイス氏は調査予算をトラディショナルな手法から新しい手法へと積極的に移していくことを宣言、リサーチャーたちに以下のような挑発的な言葉を投げかけた。
ここには、すでにインサイト業界の姿が先駆的に示されている。例えば、クライアントの業務プラットフォームを握るテクノロジー企業のサービスがクラウドにシフトすることで、集約された多様なビッグデータの活用が可能になった。ESOMAR 推計によると、アドビは売上212億ドルのうち39億ドルが、 セールスフォースは売上157億ドルのうち38億ドルがデータ分析やインサイト関連売上である(2021年)。
■インサイトという言葉はどのように使われてきたか
もともとインサイトは1970年代以降、広告業界において消費者の隠された欲求や思考を掘り下げて広告に反映させる「アカウントプランニング」のなかで使われていた言葉だ。『インサイト』(2006年)という著作のある桶谷功氏は、JWTジャパンでのハーゲンダッツやシックなどの広告制作を通して「消費者が思わず動く心のホットボタンを発見すること」と定義した。「将来はターゲットやコンセプトと同じくらい使われることになるだろう」と書いているのも慧眼と言えるだろう。
また2010年の日本マーケティング・リサーチ協会カンファレンスは、消費者インサイトをテーマとして開催された。基調講演を行った当時のP&Gジャパン社長 桐山一憲氏は、大ヒットした香り付き柔軟剤「レノア」の開発過程を紹介しながら、「インサイト」を 1) データでは見えてこない真実、2)心の奥深くに存在する自覚のない感情やニーズ、3)ビジネスを成長させる可能性を秘めるもの、と説明。従来のリサーチの課題と限界を浮かび上がらせ、ルイス氏同様に日本のリサーチャーたちへ少なからぬインパクトを与えることになった。
また、電通リサーチが「電通マーケティングインサイト」(現、電通マクロミルインサイト)と社名を変更したのも2010年だ。その後2012年にはインテージがNTTドコモとの合弁企業「ドコモ・インサイトマーケティング」を設立、2018年には楽天リサーチが「楽天インサイト」と社名変更した。調査会社が企業ミッションの中核に掲げるケースも増えている。
■変わる業界とリサーチャーへの期待
セオドア・レビットの有名な論文「マーケティング近視眼」(*2)では、アメリカの鉄道業界が衰退したのは「鉄道事業」への製品志向が強すぎたため、飛行機やクルマの発展など顧客が本当に求めている「移動」というベネフィット変化に対応できなかったからだと指摘されている。もし鉄道業界が顧客視点の考え方で「輸送事業」と考えていれば、現在とは違う形で当時の鉄道会社は変革、発展していたかもしれない。
かつて調査会社の競争力は、抱えている調査員の訪問者数、ネットリサーチであればパネル数などフィールドワークを忠実に実行する能力、そしてデータを得るための設計と分析であった。今はビジネスに直結するインサイトが求められるが、それはいつのまにか、ITベンダーや広告業界などからも得られるようになっている。ひとつの業界のイノベーションはその周縁から起こる。新しい価値の商品やサービスはコアビジネスを収縮させるとともに、周辺・外側へも適用範囲を広げていく。コアビジネスだけにこだわればビジネス領域は縮小するが、周縁も取り込めばまたとない機会を得ることができる(図表2)。
冒頭に掲げたルイス氏が伝えたかったのは、マーケティングリサーチ業界が自分たちを狭い定義にとどめず、インサイトを提供するパートナーとしてあらゆる手法を取り込み、ベストのインサイトを提供して欲しいという業界への強いメッセージでもある。インサイト産業とは、広告業界がコミュニケーションデザインというコンセプトを得て事業領域を拡大しているのと同じく、従来のマーケティングリサーチ業界やその周辺のテック企業、コンサル企業にとっては顧客視点による再定義であり、企業にとっても、個人のリサーチャーにとっても、次の成長ステージに向けた絶好の機会なのである。
(*1) “P&G's Lewis calls for shift away from traditional methods” Research Live, 2011.9.21
(*2)『T.レビット マーケティング論』ダイヤモンド社、2007年に収録