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秦氏のルーツは弓月国

皆さん、こんにちは・こんばんは・おはようございます。「見たかな?観たよ!」の中の人、ひろ-macrobiworldです。

ここのところ重い話題が続いたので、今回は軽めのテーマにしようと思っていました。(でも一部の人にとっては重いかも?)

色々考えたけれど、今回は久しぶりに日ユ同祖論をやろうかと思います。

因みにここで言う「日ユ同祖論」と言うのは、古代イスラエルの失われた十支族の一部が、長い時間をかけて中国大陸や朝鮮半島を経て古代の日本に辿り着き、日本に帰化し、日本人の祖先の一部になったことを指しています。

その代表的な氏族が秦氏と言うわけです。

「日ユ同祖論」には、更に遡って、世界で最も古い文明は縄文文明で、秦氏などの失われた十支族の末裔とされる人々は、実は世界に散った縄文人の末裔で、日本へは謂わば「出戻り」なのだとする説も存在しますが、

「出戻り説」は「帰化→同化説」以上に史料が無い、謂わば現在ではまだ「ファンタジー」に属するような話ですので、ここでは「出戻り説」は考察しておりませんので、あらかじめご了承願います。

なお今回は9千字強の内容となっております。
一気読みがキツい方は、目次をご活用の上、分割して読んでいただけると幸いです。


矛盾する記述


突然ではありますが、こと秦氏のルーツである弓月国や弓月君に関しては、残念ながらWikipediaはあてにならないなあ…と、思うのです。

景教キリスト教ネストリウス派)徒のユダヤ人が祖であるとする説(日ユ同祖論)が佐伯好郎によって提唱されたが、「秦氏=ユダヤ人景教徒」説は、殆どが語呂合わせであり、説が発表された当時から現代まで一貫して否定され続けている上に、佐伯は晩年に、弟子の服部之総の「先生はどんな動機から景教碑文研究をはじめられたのでしょうか?」という質問に対し、「ユダヤ資本を日本に導入する志をたてて、そのために打った第一手が大秦氏=猶太(ユダヤ)人の着想であった」と語り、服部を仰天させている。

Wikipediaより引用

上の一説をもって、秦氏=ユダヤ説を全否定しているのだから。

学術会議同様、中韓に押されて(汚染されて)いるとも言われる日本史の学会では秦氏は百済出身とされ、学校の歴史の授業でもそう習うと思うのですが、

そもそも百済出身だと言うのなら、何故日本への渡来を百済や新羅に妨害されなければならなかったのか?

確か茂木誠先生が、矛盾があると仰っていたような…。

それに秦氏自身が自分の祖先は秦の始皇帝の末裔の弓月君だと言っているのだから、素直に考えれば

中国の西に位置する天山山脈の麓にあった弓月国を源とした一族が建国した秦韓(辰韓)を構成した国王の子孫。新羅の台頭によりその国が滅亡した際に、王であった弓月君が日本に帰化した(太田亮)。

同上より引用

説が最も有力なはず。

「秦韓」とは即ち朝鮮半島に秦王朝の末裔が建てた国だから、辰韓を秦韓とする表記も存在するわけですが、

Wikipediaの秦氏のページではここまでは仮説のひとつとして紹介しているくせに、何故か(さらに遡ったところから導かれる仮説があるのにも関わらず)ユダヤ人説は全否定しているから、矛盾しているわけなのです。

二つのユダヤと思想


昨今の様な情勢では「同祖論」には抵抗を感じる人もいるでしょうけれど、いわゆる『新世界秩序(世界政府)』の話と『日ユ同祖論』は分けて考えるべきではないでしょうか。

何故なら新世界秩序はカザール(ハザール)人とかアシュケナージ(アシュケナジム)と呼ばれる「生き残る為にユダヤ教徒になる事を選択した(ユダヤ教に改宗した)東欧系」や「ドイツ系」のユダヤ人の一部による産物であり、


古代イスラエルからディアスポラで世界に散っていったユダヤ人と、その中でも特に行方が分から無いが為に「失われた」と言われる「十支族」は、

セム系とかスファラディ(セファルディム)系と呼ばれる言わばオリジナルのユダヤ人で、

同じユダヤ教徒であってもアシュケナージ・ユダヤとは別物※になるからです。

詳細はWikipediaをご参照ください。


例えばユダヤ・マネーの代表とも言えるロスチャイルド家のルーツは、フランクフルト出身の宮廷ユダヤ人ですからドイツ系…即ちアシュケナージ・ユダヤになります。


秦氏など、日本でユダヤ人だったのではと言われている帰化人たちは、
「失われた十支族」の一部…即ちセム系と呼ばれるオリジナルの、離散(ディアスポラ)して行方が分からなくなっている古代イスラエル出身のユダヤ人の方になります。

そもそも冒頭に引用したWikipediaで取り上げられている佐伯好郎の発言は、佐伯が景教碑文研究で日ユ同祖論を研究材料に取り上げた理由を説明しているだけに過ぎず、日ユ同祖論そのものの真偽の説明が説明されているわけではありません。

それにしてもこの佐伯という人は、英国聖公会で洗礼を受けているそうだから、まあ恐らくは、そういうことですよね。

(↑何のことを言ってるのかさっぱり「?」という方は、超長編で心苦しいのですが、前回&前々回記事をご参照頂けるとありがたいです。)

それに先の説明でも分かるように、佐伯が日本に呼び込みたかったユダヤ資本とはアシュケナージ系ユダヤのことであり、日ユ同祖論の対象となっているセム系・スファラディ系ユダヤと呼ばれている人たちとは別物なのだから。

引用されている発言は自らそれを自白しているようなものなので、「日ユ同祖論の真偽の研究そのものとは関係無い」んじゃないですか?

日ユ同祖論とユダヤ資本から始まったであろう新世界秩序構想を一緒くたにして考えてしまうと、

(工作活動による)偏見の目線が入って来て、真実を見過ごしてしまう危険性があるように思います。

この二つは関係はあるかもしれないけれど、基本的には独立した事象として捉えた方が良いと思うなあ…。
(アシュケナージやカザール系エリートは、セム系を抑え込みたい…自分たちが上に立ちたいんでしょうね。要は自分達の支配下におきたい。

だから日本のことも敗戦に追い込んで日本を解体したかったんじゃない?

その理由を世間では人種差別と表現する人も多いし、それはひょっとしたら今も同じ…なのかもしれないけれど、

でもその「上下」とか「支配する」と言う発想こそが「ウシハク」の考え方なのであって、

古代ユダヤの王国の理想の形に近いであろう「シラス」とは全く別物なんだけどなあ…。

「シラス」の基本は、「家族」としての「支え合いの関係」であって、「身分の上下」による「支配・被支配の関係」では無いのです。

「支配」と言う考え方には「子供は親の所有物」と言う意識も含まれて来ると思いますが、そうではないのです。

「子供は神様からの授かり物で、子供が成人して独り立ち出来るようになるまで、親は神様からその命を預かって育てている」だけ。

本来、親と子は神の名の下に対等な魂なのです。それが天皇と国民の関係にも敷衍ふえんされているものが「シラス」なのです。

けれども、そのことを日本人でさえよく分かっていないーーー保守派を自認する人たちでさえ…。実はそのことが問題なのです。

何故なら彼らが推す「教育勅語」には儒教の価値観が持ち込まれているが為に、(注;Chinaでは封建制度を維持する為に儒教・儒学が教育に採用された経緯がある。)

形式的には親子の関係を基本としつつも、中身は「身分や人種による上下」や「支配・被支配」の感覚が持ち込まれているので
(それは上の者が下の者から搾取しても良いと言う感覚を無意識のうちに産むことになる▶︎「親は子に従い」と言うが、その親が毒親だったらどうするのか?と言う議論を生み収拾がつかない原因にもなっている)、
容易に「シラス」を「ウシハク」に引きづり落としてしまうことが出来る…その落とし穴に気付いていない…もしくは見て見ぬ振りの保守派が多過ぎるのです。

その引きづり落とされた典型が、北朝鮮の政治思想「主体チュチェ思想」でしょう。

かなり乱暴な意見にはなってしまいますが、いわゆる「日ユ同祖論」とか「ユダヤ・マネーの話」を追って行くと、

「シラス(君民共治)」に上下関係や支配の感覚が持ち込まれると「共産主義」に行き着いちゃうんだな…そう言う結論に達しざるを得ないんです。

そして恐らく外国人には、この「共産主義」や“貶められたシラス”である「主体思想」と、本物の「シラス」の違いが分からない。

「皇族」に意外と共産主義者・共産主義支持者が多いと言われるのは、その(儒教の)影響もあるのかも知れません。また皇統継承で絶対的に男系男子を主張するグループには、教育勅語を推す人が多い様にも思います。

と言うわけなので、日本の保守派や皇族方が、教育勅語は「シラス」を体現する為の教育・道徳基準では無く、
むしろ“儒教と言う不純物が入ったが為に、本来の「シラス」を貶める危険性を内包していることに気付く必要がある”とも言えるでしょうね。

スクール・カーストなどと呼ばれる実態の中で育った今の若者や子供たちには、外国人同様にその「違い」に気付けずに育ってしまう危険性が存在する様に思います。
…いや戦前も、身分の上下のある中で育ってしまった人には気付き難いことだったのかも知れません。

そこが理解出来ていない、気付けていないから外国の共産主義勢力の浸透工作にまんまと乗せられて、売国に走らされてしまう人が出て来るのでしょう。

弓月国とは


因みに弓月国や弓月城でググるとWikipediaの以下のページがヒットして、そこには“モンゴル帝国の都市アルマリクが「唐の史書に出てくる弓月城」と推定されている”と出て来ます。

そこで「弓月城」でグーグルマップ(アースも同様)を検索すると、中国のウイグル自治区北部・キルギスやカザフスタンの国境にほど近いイリ・カザフ自治州に弓月城路と言うのがあり、そこにズームされます。

今でも「弓月城」と言う地名が残っているのです。

このイリ・カザフ自治州のイリ市(イーニン市)の辺りがアルマリクのあったところと推定されるとのことでしたが、

中国のウイグル自治区の一部はかつてペルシャ帝国の支配下にあった時代があることは、過去記事にも書いた通りです。

該当の地域は、その支配下にあったとされる地域の境界線に近くにあります。

各種マップやGoogle earthの検索でヒットした
位置関係を表す画像。


ここで秦氏のルーツに関しては、二つの説が出てくることになります。

即ち古代ペルシャ人説と古代イスラエル人説のふたつです。

何故なら古代イスラエルの「失われた十支族」に関しては、メディア(不明〜BC550年;現在のイラン=ペルシャ帝国の前身)を通って東に逃れたと言う説があるのだそうで、

また紀元前3世紀〜紀元1世紀ごろにキルギスに月氏と言う遊牧騎馬民族が存在していて、この月氏はイラン系だったと学術的には言われている様なのです。

そしてこの月氏のいた場所が実は弓月城のことで、弓月君とはその月氏の王だったのでは無いか?と言われているわけです。

また弓月城があったとされる地域は、地図を見ても分かるように、キルギスとの国境に近い場所にあります。

そしてそのキルギスの神話では、「キルギス人と日本人は兄弟で、肉の好きな人がキルギス人となって残り、魚の好きな人が海を渡って日本人となった」と伝えられているのだそうです。

一方、古事記や日本書紀に代表される日本の神話では、「弟の山幸彦は獣を獲り、兄の海幸彦は魚を捕っていた」というもので、二つの神話は似てますし、キルギス人と日本人は顔や見た目も良く似ているのだそうです。

エルサレム-メディア王国-弓月城の位置関係。
古代イスラエルの失われた十支族はメディア王国やキルギスを経由して、現在の新疆ウイグル自治区北部に逃れた?


となるとWikipediaの秦氏のページの記述には、関連の他の項目との間で、論調に矛盾が存在することになるわけです。

資料の乏しい古代の話だから、色んな説があるのは当然なんだし、全否定しなきゃ良いのにね。

秦の始皇帝も?


因みに秦氏は自分たちの祖先は秦の始皇帝だとも言っているわけですが、秦の始皇帝にもユダヤ人ないしはペルシャ人説があります。

「史書」には秦王政(注;始皇帝のこと)の風貌を、
「準(鼻)は蜂(高く尖っている)、
目は切れ長、
膺(胸)は鷙鳥(鷹のように突き出ている)、
そして声は豺(やまいぬ)のようだ」
と言う記述が出てくるそうです。
これとは別に、始皇帝は非常に大柄だったと伝えているものもある様で、純粋なモンゴロイドの容姿とは違うと言う声があります。


始皇帝の末裔の弓月君が実は月氏で、月氏がユダヤからメディア王国を経由して秦に亡命して来た氏族だと言うなら、秦の始皇帝もそうなるはずですよね。

始皇帝について調べてみると、個人的には日ユ同祖論の完全否定は、かえって胡散臭いと思います。

その理由を以下で説明して行きます。

失われた十支族の東方への移動のルートは
古代イスラエル→メディア王国→ 吐火羅国 (バクトリア王国)→秦国→弓月国=辰韓(朝鮮)→日本
の可能性があります。

因みに秦朝滅亡後に西方に逃れた方の月氏は、匈奴に追われて西に逃れ、大夏を滅ぼして大月氏となり、その一部は南下してインドでクシャーナ朝を起こしたと言われています。

(つまりJ (G?)ターンの移動ルートは、
古代イスラエル→メディア王国→ 吐火羅国 (バクトリア王国)→秦国→大夏国(弓月城・国)→中央インドーーーになる。)

秦氏を迎え入れた応神天皇の御代が、記紀の中でさえ違うので、ハッキリと確定されたわけではないけれど、実在したとすれば4世紀後半〜5世紀初頭の人物とされていますから、古代イスラエルを出て日本に辿り着くまでに凡そ800〜1000年程度かかっているわけです。

ディアスポラで故国を後にして、民族移動して安心して定住出来る先が見つかるまで、約千年。
そのうち秦国にいたのが、どれくらいの期間なのか。

実は始皇帝の祖母の夏姫は出生地や性や諱が不明とされる上、その子で始皇帝にとっては父に当たる荘襄王の名前が、嬴異人(えいいじん)と言うのだそうでして。

名前が異人って、引っ掛かりませんか。

調べたところ台湾では「異人」は日本語の「異人」と同じ意味で使われているらしいです。始皇帝が生きていた2300年前と今では、言葉も当時とは大分変わってしまっていると思うけれど、やはり気になりますよね。

因みにユダヤ人は母系相続と言う話を聞いたことがあります。

また夏姫がその号から見て夏氏(大夏)の出身だとするならば、下図から見ても月氏では無くとも西方との縁が合ってもおかしくは無さそうです。

何故なら大夏はもともとイラン系の土着民がいた土地で、大夏国は中国史書ではイスラムに征服される7世紀までは吐呼羅国吐火羅国覩貨邏国などと表記されたとのこと。

また夏姫が生きていた時代の大夏国は、イラン系(ペルシャ系)の遊牧民が多く住む地域でしたが、セレウコス朝からバクトリア王国に移り変わる時期で、この辺りはギリシャの支配下にありました。

余談ですが、イスラムに征服されるまでペルシャの国教だった「ゾロアスター教」の開祖ゾロアスター(ザラスシュトラ=ツァラトゥストラ)の出身地もバクトリアの辺りと考えられているのだそうです。

古代日本には吐火羅や舎衛(釈迦の時代の中央インド)などの外来人が訪朝しており、伊藤義教によれば、来朝ペルシア人の比定研究などをふまえて吐火羅(とから)をペルシア人に比定していると言います。

ここから、
失われた十支族の一部がメディア王国を通って吐火羅国に逃れてイラン系の遊牧民と生活を共にするようになり、その一族の女性が始皇帝の祖父に当たる孝文王に側室として嫁ぎました。
ーーーと言う仮説も成り立ちますよね。

また秦王朝自体、発祥が甘粛省と言われており甘粛省には夏姫の出身と推定される大夏や現在の新疆ウイグル自治区が含まれていることから、秦王朝自体が西方をルーツとしている可能性もあるようです。

学術的には否定も肯定も出来ない状態


個人的には秦氏や物部氏や忌部氏がユダヤ系と言う話は可能性としては高いけれど、それを裏付け立証できる一次資料が無いーーーと言うのが現状なのだと認識しています。

日ユ同祖論はいわゆる神話とか伝承とか慣習とかの状況証拠しか無いから、裏付けが取れない・確証が無い状態なんですね。

ですから秦氏が本当に始皇帝の末裔なのか、それとも箔付けの為に始皇帝の名を持ち出しただけなのか、どちらなのかは分からないけれど、

「秦韓」とは即ち朝鮮半島に秦王朝の末裔が建てた国だから、「辰韓」を「秦韓」とする表記も存在するとも考えられるわけなので、

始皇帝の末裔であることが真実なら、秦氏はそれだけでも古代イスラエルをルーツとする可能性があることになりますし、

最低でもペルシャの血は入っている可能性が高いようです。(祖母の夏姫がペルシャ系民族だったなら、単純に考えれば始皇帝はペルシャとのクオーターになる。)

始皇帝の末裔であることが真実では無いけれど、弓月国の弓月君が秦氏の祖先だと言うなら、

もともと弓月城があったとされるイリ市周辺の、その地域的特性やキルギスの神話、その他の伝承の内容を考えたとき、学術的に秦氏がユダヤ系であることを肯定出来なかったとしても、完全に否定することもまた難しいと思うのです。

確証の材料にはならないとは言え、状況証拠が多いわけですから。

なお、欧米が中国をChinaと表記して呼ぶのは、この秦王朝の秦が語源になっているのだそうです。

大夏国は欧米ではバクトリア国と呼ばれていて、紀元前にはアケメネス朝やアレクサンドロス大王(マケドニア)に支配されたこともあるヘレニズム国家(※)だったそうですから、

そう言う国から側室を迎え、その孫が初の中国統一王朝を打ち立てた秦王朝は、東洋に誕生した覇権国家の存在を西洋に印象付けるには充分だったのかも知れませんね。

歴史観のアップデートが必要?


日本人からすると、「シルクロード=西方(古代オリエント)との交易」と言う固定観念があって、なかなかアレクサンドロス大王の東方遠征による影響までは考えが及ばないかと思います。

例えば東洋と西洋が交錯する場所、文明の十字路…と言うと、私たち日本人はトルコのみを思い浮かべると思いますが、

古代オリエントの時代まで遡ると、東洋と西洋が交錯する場所とは、中近東から今の中国西部やインドまで含まれてくる。

その時代の戦乱と交易の結果、今はトルコが文明の十字路に収まっているだけで、実は並行世界では別の国が文明の十字路になっている世界線もあったのかも知れない。

中国大陸もそうですが、古代日本もその余波で、私たち日本人が想像する以上に国際色が豊かだった可能性はありそうです。

日ユ同祖論の対象となる事象も、そういった歴史を構成するピースの中のひとつなんですね。

そう言う意味では日ユ同祖論と言うのは、古代史の見方に別の視点を与えてくれた「鍵」の様な存在でもあるのだと気付かされます。

そう言う観点で、鎖国することなく国風文化を築くことができていた「平安時代」に至る、古墳時代〜奈良時代の日本の歴史を、これまでとは違う視点・観点で考えてみることも必要な時代なのかも知れません。

おまけ【注釈と考察】


※ヘレニズム国家

かの有名な「クレオパトラ」を生んだ「古代エジプトのプトレマイオス朝」と同じ。アレクサンドロス大王の東方遠征によって東方の地域に伝播したギリシア文化が、オリエント文化と融合して誕生した文化を持つ国。

そう言えば彼女の鼻が低かったら世界の運命は云々…と言う例え話がありますが、

クレオパトラをオリエンタルでセクシーな「傾国の美女」とする論調と、
始皇帝を初めて中国大陸を統一した「残忍な初代皇帝」の論調には同じ臭いがするかも…。

どちらも彼らの王朝を倒した後継の王朝によって、伝えられてきた話ですしね。

因みにクレオパトラは7カ国語を操り、エジプト経済を盛り立てた才媛だったと言われていますが、

皇帝カエサルとアントニウスと2人も骨抜きにされて、アントニウスと皇帝アウグストゥスの戦争にまで発展したローマは皇帝の権威を守る為に、クレオパトラを傾国の美女に仕立てる必要があったとも言われています。

では仮に秦王朝の後の漢王朝が秦の始皇帝を残忍な皇帝に仕立てる必要があったのだとしたら、どんな理由があったのでしょうか?

律令制度は始皇帝(秦王朝)が始めたことだと言います。後継の漢王朝は始皇帝を批判し否定しつつも、社会の仕組みはそのまま継承して使い続けたそうです。

何やら、今の中韓に通じる部分を感じてしまいます。

中国の歴代の政権は清朝は元がルーツですし、秦朝も西方がルーツだとすると、中華は外国人に支配された経験を持つ国で、純粋な華人が打ち立てたと言える王朝はどうやら隋と漢ぐらいしかなく、

そういう意味では、自国の歴史を否定したい理由をもともと持っている…と言うことなのかも知れませんね。

人間の行動は、コンプレックスが大きな動機になっていることが多々あります。

でもそのコンプレックスは時として誤った努力をしたがる方に、人の意識を導くこともよくあることなのです。

例えば、自分たちが1番(最初の…の意味)になりたいなら、基礎研究から始めてその分野の天下を獲れば良いのに、他国の研究結果を盗む様な真似をして、美味い汁を吸いたがる…とかね。

これじゃ、いつまで経っても自分たちは1番になれなかったと言うコンプレックスからは解放されないでしょう。

だから歴史的に純粋な華人による王朝が少ないだけでなく、最初の中華の統一王朝を築いたのが外国の血筋の王朝だったのだとしたら、彼らにとってはきっと認めたくない黒歴史になるのでしょうね。

中華思想と言う覇権主義は、周辺の国を全て飲み込んで自国の領土にする…と言うことなわけですが、

それの表向きの理由は国民を養う為に必要な資源の獲得だったとしても、

深層心理の部分では、本当に飲み込んで自分の支配下に置きたいのは、案外、最初の統一王朝を作ったのが外国人(?)であると言う黒歴史そのものなのかも知れません。

その彼らがユダヤ資本が作り出した共産主義で国家を統治して来た(←一種の傀儡国家とも言える)。あの国の幹部からしてみたら、それってどんな気分・心情なんでしょうか。

勿論、あちらのお偉方にはそう言う自分たちの(民族的な集合意識としての)深層心理を自覚している人もいれば、全く無自覚の人もいるでしょうけれどね。



今回はこれで終わりです。

最後までお付き合い頂きました皆様には、大変ありがとうございました。

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次回のテーマはまだ未定ですが、
良かったら、また次回も会いにきて下さいね。

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