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星図から観る日本史;女性天皇のホロスコープ編①

皆さん、こんにちは・こんばんは・おはようございます。「見たかな?観たよ!」の中の人、ひろ-macrobiworldです。

いつもの方も初めましての方も、ご訪問いただきまして、ありがとうございます。

今回からクリスマス企画(???)として、2回に渡り「星図から観る日本史」シリーズ第二弾、「女性天皇のホロスコープ編」をお届けしたいと思います。

過去に存在した女性天皇で、生年月日が分かっているのは今回取り上げる明正天皇(1624-1696)と、次回の後桜町天皇のお二人だけで、どちらも江戸時代に在位した女性天皇になります。

敬宮さま人気で注目が集まる、皇位継承問題に連なる「女性天皇・女系天皇」可否の問題。

一般的には万世一系で男系が維持されて来たとされていますが、これには異論もあって、今回取り上げる明正天皇の名前の由来となった、奈良時代の元明天皇(女帝)▶︎元正天皇間(女帝)の皇位継承は元明天皇の夫で元正天皇の父;草壁皇子(天武天皇と持統天皇の皇子)は天皇に即位しないまま亡くなった為、厳密に言えば元正天皇は女系天皇であるとする意見もあることは、一応触れておきたいと思います。

現代と同じ様に、長らく女性天皇が輩出されなかった時代を経て、どの様に江戸時代に女性天皇が誕生し、また彼女たちがどの様な人生を送ったのか?

史実とホロスコープ鑑定の内容を照らし合わせながら、考察して参りたいと思います。


明正天皇とは


後水尾天皇の第二皇女。母は太政大臣征夷大将軍徳川秀忠の五女の源和子(東福門院)。徳川秀忠崇源院(江姫;織田信長の妹のお市の方と浅井長政の三女。)の外孫、在位当時の将軍徳川家光の姪にあたり、徳川家綱・綱吉の母方の従姉。徳川将軍家、ひいては三大幕府の将軍家を外戚とした唯一の天皇だそうです。

Wikipediaより引用


明正天皇;1624年1月9日生まれ

出生時間は不明なので、正午の星の位置でソーラーハウス・システムを採用しています。

明正天皇の出生図を観ると、山羊座の太陽は冥王星とトラインで、ヘッドと海王星の合に対してはスクエアなのに対し、

月は獅子座にあって土星と木星の間に位置し、ヘッドと海王星の合をフォーカスとするカイト(精神性を表す火象サインのグランド・トラインを内包する)に有り、

いわゆる徳川将軍家の血筋であることが太陽の配置で示され、皇女であることが月の配置で示されていると考えられます。

ヘッドが海王星の合で、どちらにも絡んでいることを思えば、幕府・朝廷の総意(双方の都合)で天皇の座に即位したことが窺われます。またこの配置は、多くの場合二重権威・二重権力を意味するのですが、

伝承されている史実としては、

明正天皇の即位は、父帝である後水尾天皇が譲位したものの、男子不在(夭折)だったからで、後水尾天皇の譲位の裏には江戸幕府朝廷に対する圧迫と統制を示す朝幕間の対立があったとされています。

一説には後水尾天皇が幕府への反発から、皇室内の徳川の血を断つ為に女性天皇が一生涯独身であることを逆手にとり、明正天皇を即位させたとも言われている様です。

古代編にも書いたのだけれど、奈良・飛鳥時代に女帝が続いた理由は諸説ありますが、この時、大化の改新からまだ半世紀ほどしか経っておらず、権力を持ち始めていた藤原氏(中臣氏)の台頭を抑える意図もあったのではないかと言う説もあります。

平安時代だけでなくこの時代から、一族の娘を入内させ妃にすることで、権力基盤を強固にしてまるで皇室を乗っ取ろうとしているかの様な動きをしていましたから。

後水尾天皇も、その事例を参考にしたのかも?

譲位後の後水尾天皇は上皇として院政を敷き、明正天皇は幼かった為(7歳で即位)、女帝と言えども朝廷における実権を持つことは無かったとされているようです。

また明正天皇の即位自体、皇子誕生迄の中継ぎを前提としたものだった為が故に、
母である東福門院が後水尾天皇の後宮(側室)が産んだ素鵞宮後光明天皇)を皇太子に立て、同閏9月19日に同宮を東福門院の養子に迎えることで妥協が図られ、翌寛永20年、21歳の明正天皇は素鵞宮(元服して紹仁親王)に皇位を譲り、太上天皇(上皇)となっています。

ただ朝幕間の緊張・対立状態は続いていた為、明正天皇が即位〜太政天皇の期間は、徳川将軍家との血の繋がりがあるが故に、かえって幕府からその政治的な影響力を酷く警戒されたようで、彼女の行動は常に監視され制限を受けていたようです。

朝廷が幕府からこうした待遇を受けた時代背景には、具体的記述は避けますが、長らく続いた戦国時代の影響により朝廷内部とその周辺も乱れていて自律出来なかったからと言う説があり、

現代の俗に言う「白足袋族」と某皇族との関わり方や、先帝夫妻と某宮家の現状、政治と宗教の関係との比較、そして日本古来より言われてきた「シラス」や当時の朝幕関係などと現代の世相を併せて考えると、なかなか興味深いと思える時代の流れがあった様に思います。

とは言え幕府に口出しすることが無かった明正上皇は、幕府にとって理想的な上皇とされ、
明正上皇はその後出家して太政法皇となり、74歳で崩御されています。

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