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『生涯現役で災害看護を』 災害看護講師 山﨑 達枝 さん

被災された方と関わる中で、生涯現役で災害看護に携わりたいと思うようになったと話す山﨑達枝さん。どんな背景からそのように思うようになったのか、彼女の人の気持ちに寄り添ったストーリーを伺いました。

プロフィール
出身地:千葉県
活動地域:東京都 平成31年4月より新潟県
経歴:都立病院5回の転勤を経て、平成17年6月まで広尾病院勤務。同病院救命センター看護長災害対策担当としても活動していた。現在は長岡崇徳大学看護学部に勤務。教員として勤務する傍ら執筆や講演を行う。救援活動にも積極的に参加。
座右の銘:貯金するより貯人しなさい

記者 本日は、よろしくお願いいたします。

山﨑さん(以下、山﨑 敬称略)よろしくお願いいたします。


「生涯現役で災害看護を」

Q.    今、お持ちの夢・ビジョンを教えて下さい。

山﨑 年齢的には折り返し地点回ってますので、夢というより現実的に自分が何を出来るかと考えた時に、生涯現役でいきたいという気持ちがあります。その生涯現役でというのは、ずっと災害看護をやって来ていますので、国内外の災害の現場で、現役で最後までやりたいなと思います。その理由のひとつとして、時に医療班は上から目線で、支援に来てやってるんだみたいな感じになり、支援に来てもらう人たちは、来てくれてありがとうございますと上下関係の構造がつくられてしまう現状があるからです。でもそうじゃない。現場に来るといろんなことを教えてもらえます。だから対等なんだよと。やっぱり災害というものの、被災を受けた人たちからどんなことを学ぶのかというのは現場に来ないとわからないですし、現場で活動しながら被災された方の話を聞くことでいろんな勉強になります。なので現場主義です。私は。

記者 最後までというのは、それこそ体が動かなくなるまでということですか?

山﨑 そうですね。迷惑をかけない程度に自分の体が動くまで。それを思っています。一般的に災害というと、建物が崩れてそこから救出し、病院に搬送という華やかなフライトナースのようなイメージが多いんですが、そういうのは若い人たちにお願いして、私は、家族や大切な人を失った人たちと関わって行きます。悲嘆と喪失が一緒に来るのが災害なんですね。大切なものを突然失って、家族であった人が夕方には遺族になってしまう。そうすると嘆き悲しむ悲嘆と、大切なものを失った喪失、それらを抱えた人たちと関わって行くことが看護職ができることの大事な一つです。なので災害看護の現場に長く入って行きたいと思っています。

例えば、阪神・淡路大震災と中越地震を比べたときに、亡くなった人の人数が少なかったから中越地震は被害が少ないとか思われがちですし、私も最初はそう思っていました。しかし、現場に行って学んだことは、そういう亡くなった方の数の問題じゃなくて、一人一人のショックが何人集まったかということを災害に大小はないと医療者は見なきゃいけないということでした。現場に行くからこそ教えてもらえることを次へ、学生や若い看護師さんたちに伝えて行くのが私の役割だと思ってます。

記者 現場に入る価値をしっかり持っていらっしゃるのですね。

山﨑 はい。以前の話ですが、阪神・淡路大震災の前、看護師として災害の勉強をするというのは、東京都からはすごい異端児だったんです。医学も看護学も以前は、災害看護なんてなかったんですよ。ですので、上司にそういったところで災害が起きた時に看護をしたいと言うと、「あなたは東京都の税金をもらって働いてるから都民のために働きなさい。」と言われました。また、「どうして、そんなところに興味を持つの。」と言われたことを友人に話すと、「そらそうよ、出る杭は打たれる。」と。それで、「ストレートに出ずに斜めに出るといいのよ。要するに要領よくやればいいのよ。」と言われたので、地道に災害の事を勉強していたところで、阪神・淡路大震災が起きたのです。

それで、朝方だったじゃないですか。その当時、主任だったんですけども、病院に行って婦長さん※に行きたいって言ったんですよ。突然の朝からの申し出に婦長さんは、「何で神戸に看護師さんがいるのにあなたが行かないといけないの?」と言われました。私たちは勉強しているので、神戸の看護師も被災者になることも、それ以上の負傷者が発生するということもわかっていたけれど、婦長さんにはわからなかったんです。「あなたの夜勤は誰がやるのか。」「突然、行きたいなんて。あなたが東京都にいることが東京都にとって災害です。」と言われたんですよ。とにかく何言われてもいいから行きたいって思いました。最後は、「婦長さん行かせてあげてください。」って、スタッフから声が上がって、そこから婦長さんが、「どうぞ。」となり、すぐ被災地に向かいました。
※注略  現在の師長。当時は婦長と呼ばれていた。

記者 とても強い意志で現場へ入ること、災害看護の道をつくって来られたのですね。


「階段を登ることを心がけている」

Q.    生涯現役でというその夢のために心がけていることはありますか?

山﨑 私とても体が丈夫なんです。体力を維持するためにできるだけ、エスカレーターとエレベーターは使わないで5階までは自分で登るとか、沢山の荷物持っていたりするときは別ですけど。階段は5階までは自分で登ると心がけていますね。去年、一日で白波海道の76キロも自転車で走破しましたよ。自転車を選びながらお店の人に、「無謀です。途中で一泊するように。」と勧められました。自慢なんですけど、熱を出した記憶がないんです。だから子どもたちに言われます。「お母さん、熱を出した辛さ知らないでしょ。」って。扁桃腺が腫れて熱が出るってどんな辛さかわからないんです。お腹をゆるくしたこともないんです。

記者 いろんな国にも行かれていてもですか?

山﨑 全然ないんです。


「病院に連れて行くと言う判断ができる知識が必要」 

Q.    看護師を目指されたのはどういう背景があったのでしょうか。

山﨑 私がまだ小学校1年生のときに父が亡くなったんです。そのときに姉が看護師でした。自宅で往診を受けていたのですが、いよいよ危なくなったときに病院に連れて行き亡くなりました。そのとき、姉がすごく後悔したんですよ。もっと早く病院に連れて行ってあげたらよかったと。それを私は小学校一年で聞いていました。そのあと、早くに父を亡くしているので、兄がとても苦労したんです。その姿を見ながら、姉が言ってるようにもう少し早く病院へ連れて行く知識があったら違ったんだろうなって思いました。あと、就職の選択も今みたいに沢山はなくて、当時の職業といえば保育士か、教員か、看護師でした。母が手に職をつけてほしいと言っていたこともあり、姉の右に倣えというところで進んだ感じです。

記者 そのあと災害看護の道へ進まれるのですね。

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Q.    生涯現役の夢を目指されるキッカケには何があったのでしょうか?

山﨑 1991年の湾岸戦争のときの経験がキッカケになっています。私は当時、日本で手術室の看護師をしていました。長い間やっていた上に、緊急の受け入れもこなしていたので、何がおきても怖くないという感じでした。だけど、あるときから、このまま手術室の看護師でいいのかな?医者の右腕になるのはどうなのだろうか?と疑問に思うようになったのです。そんなとき、当時の医師に勧められたのが、国際緊急援助隊(JICA)でした。いい機会だったので私は登録したのですが、ちょうどそのときにイラン地震が発生し、私は自ら手を挙げて現地に行くことになりました。それが先ず、私がイランに行った経緯です。

そしてその翌年、湾岸戦争が起こりました。イランとの国境沿いにイラクから流れてくる方々の野戦病院があったのですが、先ほどもお話ししましたように、私の体は丈夫で、ちょっとやそっとのことでは動じないため、その野戦病院で活動することになったのです。そこに、やって来た栄養状態がよくなく腰をかがめた高齢の男性と出会いました。彼が患っていたのは、肛門腫瘤膿瘍という日本では外来で処置できる簡単なものだったのですが、なにせイランに流入されてきた難民の方々は、トイレで排泄する習慣もなければお風呂にも入る習慣もないので、さらなる感染も考えられました。言葉が通じないので、絵やジェスチャーを活用して1週間ほど治療したら徐々に背中が伸びて治りました。その頃、ちょうど私たちも首都テヘランに帰る時期でした。その男性に、「明日からは来なくていいですよ。」と言うと、その老人が突然私の手の甲にキスをしたのです。イランのことはある程度、本で勉強をしていたのですが、その時の私にはその行為がどういうことなのかわからず、能天気に、イラクから逃げてきて何もないからありがとうという気持ちの表現だろうと思い、「そんなに気にしないでください。」と見送ってしまったのです。

そして、その翌日、テヘランに戻って日本大使館で報告をしたときのことでした。その話を聞いた大使がすごく真面目な顔をして、「そういう話は聞いたことがありますが、実際にされたのは山﨑さんが初めてですよ。」と言われました。「イスラム教徒が知らない女性の手の甲にキスをするということは、神に準ずるくらいあなたを尊敬しますという意味ですよ。」と。その時から私の後悔が始まりました。私たちは団体で来ているので、その方に謝るために私だけ戻るわけにも行きません。ですから、とにかく申し訳ないという想いから、「もう日本の医療は若い人たちに任せて、私はこのような現場の看護をやっていきたい。」と思うようになったのです。彼の気持ちに応えられなかったことが、今でも本当に申し訳ないと思っており、そういう方たちの医療看護に生涯を捧げると、その時に思いました。

記者 そのような出来事があったのですね。本当に、その彼の気持ちに応えたかったという想いが伝わってきますね。山﨑さんの人の気持ちに真剣に向き合う姿勢が、とても素敵だと思います。本日は、心熱くなるお話をありがとうございました。

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山﨑さんに関する情報はこちらです。
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●facebook
https://www.facebook.com/tatsue.yamazaki
●山﨑達枝 災害看護と私 Disaster Nursing
http://disaster-nursing.com/index.html

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【編集後記】この度、インタビューを担当させていただきました吉村・坂村・澤田(撮影)です。全身から「大切なあなたを守りたい」という慈愛のオーラが醸し出ている山崎さんのお話は、現場の臨場感が真剣さと優しい口調から感じられ、熱量が高かったです。!インタビュー後も、ご家族のお話や他県に移住したお話など聞かせて下さり、人との距離感が近く、またお会いしたくなるお人柄が魅力的でした。

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