歳を捨てよ、旅に出よう
飛行機嫌いで心配性、しかも外国語が話せない私にとって、海外への旅は一大イベントだ。
出発前までおっかなびっくりの旅行でも、現地での体験は全て、これから私が生きることの役に立つ。
「若いうちに、いろんな国へ行くと良い」、年長の方々からそう言われるたびに深く頷いてきた。
それと同時に、必ず思い出すことがある。
5年ほど前、後輩と二人でシンガポールへ旅に出た。
少し日が傾き出した頃から、動物園のナイトサファリへ出掛けた。
日本語ガイドのバスツアーなので、参加者はどことなくのんびりと打ち解けている。
観光客で賑わう動物園の団体用レストランに案内され、参加者たちはそれぞれ並んでテーブルについた。
私と後輩の隣には、優しげな一人の女性が腰掛けた。
異様にフレンドリーな後輩の勢いもあって、自然に会話が弾んだ。
聞けば、女性は50代半ば。
家族や友人としか旅をしたことのなかった彼女だが、以前から興味があったシンガポールへ、思い切って一人でやって来たのだという。
旅慣れていない彼女にとっては、大冒険。自分に置き換えてみて、勇気のある彼女に尊敬の念を抱いた。
それがねえ……と、彼女は眉毛を八の字にして笑った。
彼女が、シンガポールに着いた翌日のこと。
年齢も一人ぼっちの不安も忘れ、単身で海外へ来たという自信が湧いていた。
街を散策していると、あちこちにカメラを向けながら歩く年配の日本人男性に出会ったという。
彼と自然に会話を始め、女性はすっかり驚いてしまった。
男性の年齢は80代後半、しかも一人旅だと言うのだ。
一人の海外旅行に慣れているのか尋ねると、
「いやいや! 海外なんて、ほとんど来たことなかったよ」
健康で体力のある方でも、80代で慣れない海外一人旅とは、なかなか決行できないものだろう。
余程の理由や、用事があったのだろうか。
失礼とは思いつつ旅の理由を尋ねた彼女に、男性は湾の向こうを指差して見せた。
顔を上げると、シンガポールで最も有名なプールを乗せた建物が見えた。
3つの巨大なビルの上に置かれているのは、空の彼方から舞い降りた宇宙船か。
現実とは思えない光景に思わず見惚れた彼女の耳に、男性の快活な声が聞こえてきた。
「シーエムっていうの? テレビであれを見てねえ。どうしても実際に見てみたくなって、だから来たんだよ」
「こんな歳なのに、私は物凄いことをしている!」そう思っていたけど。
何歳でも、特別な理由をこじつけなくても、旅ができるんだ。
「あの光景を見たい」って、それだけでどこへでも行けちゃうのよね。
そう、彼女は語った。
少し恥ずかしそうに、でも心底愉快だという顔で。甘辛いチキンを頬張りながら。
私は、おそらく彼女と同じ気持ちで聞いていた。
その男性を格好良いと思い、いつか颯爽と海の向こうを指差す80歳の自分の姿を夢見た。
海外に飛び出して、その国の芸術や文化、人の心に触れ、己の人生の学びとする。
それには確かに柔軟な思考と体力が必要だが、「若いうち」とは限らない。
何よりも大切なのは、好奇心だ。
会ったことのない男性の笑顔は、私の記憶に刻まれている。
彼の視線の先には、マリーナ・ベイの宇宙船が強すぎる陽光を跳ね返している。
たとえ、私が何歳になっても。
「見たい」。そう思った時に、未知の景色は目前にあるのだ。