溶かす
電灯が消えても、宝塚歌劇団のお稽古場ではたくさんの生徒が自主稽古を続けていた。
まだまだ下級生だった私は、その夜も遅くまで、与えられた少しの台詞を繰り返し練習していた。
どうすればお芝居が上達するか、そればかり考えていた時であった。
張りつめた心を抱えてキリキリと廊下を歩いていたら、とある上級生が声をかけてくださった。
それは大ベテランの男役さんで、お芝居では主人公の父親役や身分の高い重要な役どころを演じる方だった。
若かった私よりうんと歳上であり、立場を見ても遥か高みにいらっしゃる存在だ。
いつもは近くを通るだけでも緊張してしまう方なのに、驚くほど柔らかな眼差しに引きつけられ(思えば、しっかりと目を合わせたのも、その時が初めてだった)、図々しくもお芝居に関する質問をしていた。
多少の非礼など気にも留めないという風情で、悠然と耳を傾けてくださったその方は、穏やかな口調で仰った。
お芝居をする時に、力任せに舞台へ出て行ってはだめよ、と。
「水に絵の具を溶かすように、あなたの色を舞台に広げるの。
一滴の絵の具はお水の中で、ゆっくり、ぼんやり……でもどこまでも広がってゆくでしょう?」
絵の具まみれの絵筆を強く押し付けていれば、はっきりとした線になる。
それは誰とも混じり合わず、場違いな主張をやめられない線だ。
自分の役のことだけを考えている人の演技は、どんなに巧みな台詞も所作も、周りの人たちとどこか噛み合わない。
みんなよりも目立ちたい、うまく見せたいと思えば思うほど、その役者は舞台の上の世界から孤立してしまうことがある。
「自分らしい演技をしよう」という強固な意志は大切だが、それだけでは演じられない。
たとえ一人芝居であっても、だ。
共演者を思いやり、裏方さんとお客様みんなで作る舞台の空気感に溶け込まなければ、「良い役者」と呼ばれることはないように思う。
様々な演劇論があるけれど、私はそう感じるのだ。
舞台を降りた今でも、私は時折考える。
お仕事をしたり、友人と会話したり、多くの人たちと関わり合っている今の自分について。
がむしゃらに絵筆を叩きつけて、自己主張を描き殴ってはいないか。
誰かの心に、傷のような線を刻んではいないか。
自分の存在を印象付ける「爪痕を残す」言動は時として大切で、そうするべき局面もやってくるだろう。
その時は躊躇せず、気迫をこめた線をしっかりと描き付けていきたい。
でも、そんな勝負に挑むまでは、私は絵の具をそっと水に溶かし込む。
混ざり合うことを恐れず、ぼやけた境界線に焦ることなく。
水中で広がる淡い色が、煙みたいに揺らめく様をのんびり眺めていたいのだ。
薄暗い夜の廊下で声をかけてくださったあの方もまた、あたたかな水だった。
冷たく尖っていた私の心は、緩やかに溶け出したのだ。
一滴の水さえ、あれば良い。
乾いたパレットにこびりついたカピカピの絵の具は、ただ一滴の水によって驚くほど鮮やかな色を取り戻す。
その色彩の輪郭は頼りなく揺れるが、自由自在に形を変える。
やがて水面を辿って、誰かの色と出会うだろう。
そうして幾つもの色は混ざり合い、いつか大海を染める。