携帯電話に130年前の花が咲いた。
ふと思い立って、携帯電話のケースを替えた。
いくつかのケースをその日の気分によって替えられたら楽しいが、いつも気に入ったひとつを長々と使ってしまう。
一度など、新しいケースを待機させるうちに電話の機種変更をしてしまい、ついに使わなかったケースもあったほどだ。
今回の新しい携帯電話ケースは、アムステルダムを旅した時に買った物だ。
もう一年以上もしまいこんでいたそれには、ゴッホの絵画がプリントされている。
Almond Blossom 、それが絵画のタイトル。
一年と少し前、アムステルダムにある、ファン・ゴッホ美術館を訪れた。日本を発つ前から楽しみにしていた場所だった。
見たことのない小鳥が可愛らしい声で鳴いていた。緑の道を歩き、ガラスの曲線が近代的な印象の建物を目指した。
昼下がりの美術館には自然光が差し込み、海外からの観光客やオランダの人たちが思い思いに絵画を眺めていた。
Almond Blossomは、ゴッホが死の五ヶ月前に描いた作品だ。
仲良しの弟テオに赤ちゃんが生まれ、フィンセントと名付けられたという知らせを受けたゴッホが、そのお祝いに描きあげた物だそうだ。
私は、この絵を見てみたいと思っていた。
浮世絵の影響を受けた代表作のひとつである「花咲くアーモンドの木の枝」の色彩や輪郭線を、実際に目にしてみたかった。
広い展示室を飾る、絵画の数々。
一枚ずつ鑑賞していくと、美術の教科書で見飽きたはずの絵柄、画家の経歴に連なる文字は遠のき、一人の男の姿が鮮やかに立ち上がる。
上流階級のきらびやかな夜会よりも、狭く薄暗い部屋で馬鈴薯を食べる人たちを描いた。
どこにでもある生活を見つめ、くたびれた娼婦を見つめ、それを美しいと思っていた。
狂気の画家、色覚異常とされるゴッホ。
専門家に研究し尽くされ、事実に基づくそれらの説を、私は愚かにも疑ってみたくなる。
彼は、ほんとうに、あるものをただあるように描いていただけなのかも知れない、と。
展示室をまわり、通路を進む。
橋、カフェ、こちらを見つめる女、ガラスのコップ、ベランダから見下ろす通りの風景。
それは遥か昔に失われた景色であり、ひとであるが、画家の手によってその姿をキャンバスの上に残していた。
なんて不思議なことだろう。すべてはもうここにはないのに、私たちはそれらをゴッホの目で見ることができる。
展示室から続く階段の先に、Almond Blossomは飾られていた。
陽光を含んだ青空に咲く白い花を、彼は私に見せてくれた。
病んだ心が描かせたはずのアーモンドの木は優しさの色をつけ、静かに枝を揺らしているようだった。
キャンバスの前に立ち尽くす私に、遠くの声が届いた。
それは、いつかこの木が聴いた画家の声。
溢れんばかりの喜びと祝福の声。
「ありがとう。
生まれてきてくれて、ありがとう。
ようこそ、この美しい世界へ。」
もう、ずっと昔のこと。
まだ冷たい風吹く春のはじめ、彼はこのアーモンドの花を見上げていた。
ファン・ゴッホ。
その時、自分のどうしようもない苦しみをひととき忘れただろうか。
嬉しくて、ただ嬉しくて、足元の冷たい土にぽろぽろと涙を落としただろうか。
自分と同じ名前を持つ新しい命の誕生を祝い、自らはもう世界に別れを告げる時だと決めてしまったのだろうか。
それでも、そうだとしても、彼の心が深く病んでいたとしても。
私の目の前に広がるアーモンドの木の枝先には、たしかに希望が宿っていた。
西洋美術の本質や絵画技巧や美術史的価値についてなど、何も知らない。
でも、私はこの絵がとても好きだ。
こんな間抜けで不躾な告白を、彼が聞いたらどうだろう。
ちょっぴり肩をすくめてキャンバスを差し出してくれる気がするのは、少し都合が良すぎる空想か。
その袖口には、絵の具がこびりついていた。