てのひらにダイアモンド
彼女の名は、ルーシー。
1974年に発見されるまでの320万年間ほど、エチオピアの谷底でひっそりと眠り続けていた。
見つけられた当時、最古の人類の化石だった、アファール猿人の女性。
320万年前。
それはここから遠すぎて、うまく想像することが出来ない時代だ。
私が初めて遺跡というものに出会ったのは2年前、旅行先のマルタ共和国だった。
マルタには、幾つもの貴重な建造物が現存している。
それらが作られた年代は幅広く古代から中世に渡り、複数の世界遺産も含まれている。
未だ謎の多いマルタの巨石文化は、世界中から訪れる学者によって調査が続けられているそうだ。
初めて目にした古代遺跡群は、歳月に削られた粗い外壁を晒していた。
今では無人の戸口や窓が、ただ静かに風を通していた。
広場のような空間と、装飾の施された石の台。
ここは神殿で、生贄を捧げる儀式が行われていたと言われています、とガイドさんが説明してくれた。
「神殿」「生贄の儀式」、それらはあくまでも現代にて導き出された憶測だ。
もちろん、憶測などとは言えない緻密な調査の結果なのだが、それが間違いなく事実だと断言できるひとは存在しない。
何も資料が残されていない、遠く過ぎ去った時代。
そこには、私たちが知り得ないような文化、文明もあったはずだ。
これがどんな建物で何が行われていたのか、真実は永遠に分からない。
それでも研究者は気の遠くなるほどの膨大な時間を費やし、ほんの僅かな歴史の痕跡を探し出して過去ににじり寄っていく。
考古学がひとを魅了する理由を、私は初めて少しだけ理解した。
その深遠なロマンを。
かつて誰かの手が触れた、蜂蜜色の石壁。
天窓のある石室に遺された、祈りの言葉の残響。
そこにあったのは、誰かが生きていた証だった。
数字ではなく、物質の成分名ではなく、顔と名前を持った誰かの姿を見た。
そのひとたちは、もうここにはいない。
今では観光客とガイド、課外授業で訪れた学生たちが行き交う色あせた巨石の連なりだ。
順路にそって見学しながら、彼らは皆どことなく瞳を彷徨わせている。
専門家がどれだけ保存に力を注いでも、遺跡は少しずつ朽ちていく。
マルタのゴゾ島に建つジュガンティーヤ神殿の、ゴツゴツとした石灰岩の外壁。
巨大な石で組まれた壁の隙間には野草が蔓延って葉を伸ばし、桃色の花を咲かせていた。
それは、この上なく自然な光景だった。
これから長い時間を経て、この遺跡たちは土へ還る。
私たちの世界も、その後に続いていく。
遺跡の建つ丘の向こうには、インディゴの海があった。
失われた時間と終わりゆく場所を見ているのに、何故か、心安らぐ。
ルーシーという名は、発見当時に流行していたビートルズの楽曲にちなんでつけられたそうだ。
夢の中へ迷い込んだような音楽の中で、少女は万華鏡の瞳に太陽を映している。
「ルーシーはお空へ、ダイアモンドと一緒に。」
遥か遠い昔から、現代へと連れてこられてしまったルーシー。
本当の名前は、なんというのだろう。
どんな声で、歌っただろう。
腕を伸ばし、原始の森でひとり踊っていた。
それは、この地上にまだ神様がいた頃のお話。
いつかそう遠くない未来のある日に、この世界は終わりを告げる。
高層ビルはやがて風化して遺跡となり、時を経て再び掘り起こされる。
ここにいるはずのない彼女が、分析され測定され、ルーシーのレプリカになったように。
ルーシー、もう一度歌って。
その腕を伸ばして、森の奥で踊って。
それから、あの日と同じように恋をしてね。
インディゴの海に、一粒の涙を。
彼女はひとり、エチオピアの展示室に囚われている。
昔々の謎をそのてのひらの中に隠し、沈黙したまま夢を見続けている。
国立博物館のガラスケースから飛び立って、ルーシーは空の上へ。
てのひらには、煌めくダイアモンド。