向こう三軒両隣とりどり
川の近くのマンションに住んでいた子供時代のことを、私はたびたび思い出す。
そこには必ず、もう1人の女の子がいる。
隣の部屋の住人だったJちゃんだ。
幼い頃から、私たちはとても仲が良かった。
お互いの部屋で遊んだり、マンションの敷地の外まで出かけたり。
一緒にめだかを飼っていたこともある。
一匹のめだかを入れた水槽を行き来させ、かわりばんこにお世話していたのだ。
不安定な環境に置かれためだかには、迷惑でかわいそうなことをしてしまったが、Jちゃんとはそれほど親しかった。
いつも穏やかで、よく笑う女の子だった。
私が自分勝手な行動をとっても、面白がってついて来てくれた。
今思えば、優しく見守ってくれていたのかもしれない。
彼女と遊ぶことで、私の世界はぐんと広がった。
興味のあるものを見て、触って、語る。
それを一緒に体験する友達がいたのは、なんと恵まれていたことだろう。
私は中学生の時に、そのマンションから家族で引っ越した。
その後、忙しく学校に通ううちに手紙のやり取りも途絶えて、Jちゃんとの交流はすっかりなくなってしまった。
お仕事や家族の事情によるけれど、人生で住まいを変えるのは、10回や20回とあることではないだろう。
何ヶ月間でも何十年間でも、隣の家で暮らす人とは多少の縁があると思う。
生涯の友となることもあれば、お互いの人生を歪めてしまうほど憎み合うこともある。
ただの一度も挨拶を交わさないどころか、隣人の顔を知らないまま生活し続けることも。
私が関西地方のマンションに住んでいた時、隣室からはしょっちゅう怒鳴り声が聞こえてきた。
前の住人や反対の隣室の物音は殆ど響かなかったので、壁が薄かったわけではないと思う。
だが、隣の部屋で繰り広げられる誰かと誰かの言い争いは、かなり明瞭に聞こえてきた。
隣室の方は、ある病気の後遺症で大声を出してしまう症状を持っていた。
介護するご家族の苦労は、大きなものだっただろう。
そんな辛い状況を理解してはいても、毎日の怒声に心休まることはなかった。
毎朝、決まった時刻になると、怒号とそれに応える大声が聞こえ始める。
まだ眠っていた時も、仕事へ出かける用意をしている時も、隣人の激昂は私の心から元気をむしり取った。
やがて、ご病気の方の声だけではなく、家族同士の諍いの声が、昼も夜も聞こえるようになった。
ご苦労は知っていたし、人はみんな他者には分からない事情を抱えているものだから、隣人を恨む気持ちはなかった。
ただ、人間が発する怒りや悲しみの叫びは、聞く者の心を殴りつける暗い威力があると思い知らされた。
私はこれからどんなことがあっても、誰かに対して声を荒げることは、なるべくやめよう。
そんなの当たり前のことかもしれないが、それが隣人に教えてもらったことだった。私が荒げた声は、時には無関係の人を悲しませてしまうから。
子供時代を過ごしたマンションから転居して、10年近く経った頃だった。
中学、高校の同級生だった友人が、久しぶりにこんな連絡をくれた。
「大学で仲良くなった人がいるんだけどね。この前、子供の頃の話をしていたら、あなたのことを知ってるみたい」
その女性は、こう語ったという。
同じマンションの、隣の部屋に住んでいた女の子と、すごく仲が良かったの。
お人形遊びをしたり、マンションの前の坂道を走ったり、一緒にめだかを飼ったりね。
「今でも会いたい友達なんだって。そう言ってたよ」
私は、友人がそう多い人間ではない。
子供の頃、隣に住んでいた女の子が、10年後に私の同級生と友達になる。
それは一体、どんな奇跡なのだろう。
年代や地域のことを考えれば、よくある偶然なのかも。
でも私は、「縁」という言葉を思い浮かべずにはいられない。
街に暮らす限り、私は隣人と巡りあう。
私だって彼らの隣人なのだから、網戸を蹴りとばすよりも、窓辺で花を育てたい。
食器の割れる音で心を打ち砕くより、わくわくしながらめだかの水槽を覗き込む方がいい。
だって、たとえ小声で挨拶を交わすだけでも、隣人の心に温もりが灯ることがある。
今でもJちゃんとの再会は叶っていないし、彼女の連絡先も分からない。
でも、大丈夫な気がするのだ。
私たちは、きっとまた会えるだろう。