カルカーラ
何を持って行けば良いのだろう。
ガイドブックの中の小さな記事を何度も読み返し、100年以上も異国の土に眠っている、私と同じ国の人たちのことを思った。
私の痩せ細った想像力では「おまんじゅうとお茶」を思い付くのが精一杯だったが、「本当にそれで良いのか」と迷いがつきまとい、結局私は何も持たないまま飛行機に乗ったのだった。
第一次世界大戦中、英国の要請により地中海に派遣された旧日本海軍は、連合国の船を守り、多くの人命を救ったという。
1911年6月11日、地中海を航行していた駆逐艦「榊」は魚雷による攻撃を受け、沈没した。
「榊」とともに海に散った59名に戦病死者を加えた71名のための「旧日本海軍戦没者の慰霊碑」が、マルタ島にある英連邦軍墓地に建てられている。
ずっと訪れてみたかったマルタ共和国への観光旅行、その2日目に、私は友人と日本人ガイドさんとともにカルカーラという街へ向かった。
カルカーラへ続く道の途中で、私は水の入ったペットボトルを1本、購入した。
それが、悩んだ末に、私が選んだお供物だった。
車を降りると、陽光をそのまま焼き付けたように明るく乾いた色合いの、石造りの門が建っていた。
鉄扉も道路も、草木も、強い日差しに照らされていた。
所々にある樹木の緑の他は、マルタの石特有の蜂蜜色だけが色彩の全てだった。
石の門をくぐると、広大な敷地にたくさんのお墓が並んでいる。
入り口の黒いプレートにはくっきり、「旧日本海軍戦没者墓地」と書かれていた。
たった2日間でも英語とマルタ語の文字ばかり見ていたから、唐突に現れた漢字につい目が吸い寄せられる。
幾つかの木陰の他には日光を遮るものはなく、墓地の重苦しいしめやかさは、眩しすぎる真昼の光にかき消されていた。
乾いた土を踏みしめて敷地の奥まで歩くと、その慰霊碑はあった。
「ああ、ここなのか」と声にするでもなく佇んだ私の足元では、オリーブの葉影が揺れていた。
「大日本帝国第二特務艦隊戦死者之墓」と刻まれた石柱、その横には、戦没者の氏名がずらりと並んでいた。
ただ、日差しと静寂があった。
お花もお酒も捧げずに、私はただ、慰霊碑に記された氏名を読んだ。
最初から最後の一名まで、読んだ。
それが、私に出来る全てだった。
小さな日本人観光客の、たった数十分の短い滞在が、遠い国と故郷を一瞬だけ繋ぐ糸の道になれたならと、祈った。
清らかに整えられている慰霊碑の前には、南国の植物が植えられたごく小さな植木鉢と、真新しい煙草が一本、手向けられていた。
その横にそっと、この国のお水を供えて、私は墓地を後にした。
憧れていたマルタ島は、この旅によってさらに強い憧れの場所となった。
いつか再びマルタ島を訪れたいと思い続けている。
再訪が叶った時、カルカーラの石の道を歩く私の手には、何があるのだろう。
お茶とおまんじゅう、それから。
そう考えることが、私の学びの始まりだ。
私が生まれるずっと前、故郷から遠く離れて紺碧の海に散った人たちがいたことを思う。
蜂蜜色の石の柱と、ひととき、同じ風に吹かれた真昼を思い出す。
私は、戦争について考える。