喜びと悲しみと祝福を、私のクリスマスツリーへ
銀杏がようやく色づく頃から、街は早くもクリスマスムードになる。
季節の先取りし過ぎには首を傾げてしまうが、それでもお店や通りが明るく彩られて楽しげな音楽が聞こえると、自然に心がうきうきしてくるのだ。
最近引っ越しをしたので、新しい家にはまだクリスマスツリーがなかった。
苦し紛れに、観葉植物のシェフレラにオーナメントをぶら下げてみた。
シェフレラの幹は右に左に大きく湾曲していて、いかにも南国の植物といった姿だ。
その枝に金色の飾りが揺れると、それはそれでお洒落なのだが、やはりなにかが違う。
「頑張って、クリスマスツリーになってみました」という雰囲気が色濃く、シェフレラ自身の戸惑いが伝わってくる。
無理なことをさせて申し訳ない、でもデコレーションされた姿もなかなか格好良いよ。
やがてうちにも正規(?)のクリスマスツリーがやって来たのだが、シェフレラも我が家のクリスマスツリーとして飾られ続けた。
きっと迷惑だっただろう。
いや、いつもと違う自分を案外、楽しんでくれていたかも。
12月半ばにさしかかる頃、私は友人と連れ立って、とあるホテルのラウンジへ入った。
お茶を飲みながらひとしきりおしゃべり、おしゃべり。
帰りがけ、私たちの視界に入ったのは、見上げるほど大きなクリスマスツリーだった。
このホテルのクリスマスツリーはいつも話題になっていて、写真を撮るため毎年やって来るお客さんもいるという。
それは見事な煌びやかさだった。
天辺の金色の星は大き過ぎて、樹の上にもうひとつ黄金の小さなクリスマスツリーが乗っているように見える。
ツリー全体も、豪華に飾り付けがされていた。
驚嘆して眺めていたが、次第にあることが気にかかってきた。
すごく重そう。
ぴんと尖った枝の先にまでびっしりと飾りがぶら下がっているから、緑の葉先はどれも床へ向いている。
クリスマスツリーって円錐形だけど針葉樹だから、葉っぱの先はぴしっと上を向いているものなのだ。
かの有名なニューヨークのクリスマスツリーだって、宝石のようなデコレーションに埋め尽くされていても、その枝先には力が漲っているように見える。
美しい飾りを重たげに抱えている、ホテルの巨大なクリスマスツリーを見て、ハッと気がついた。
毎年私の眼を楽しませてくれていたのは華々しい飾りではなくて、凍てつく夜に佇む元気な緑の樹そのものだったのだ。
その枝に輝く飾りのひとつ、ひとつに、私はこの1年の日々を見る。
悲しみも喜びも、色とりどりのボールに包まれてぴかぴかしている。
世界中の人たちが過ごした1年が、人生が、光と闇がそこにあるのだ。
5番街の天使と何万もの人が瞳を輝かせて見つめる、あの華やかなクリスマスツリー。
スーパーマーケットの入り口で足を止めた家族が肩を寄せ合って眺める、古ぼけたクリスマスツリー。
冷たい隙間風が吹き込むアパートメントの一室で、酒を飲んで眠り込んだ男を見守る、埃だらけのクリスマスツリー。
どこにいても、どんな苦しみを抱えていても、色褪せない緑の樹は幸せの形をしている。
クリスマスツリーを命ぜられたシェフレラが、丸っこい葉っぱと金色のベルを誇らしげに揺らすように。
だから今日は、街で出会うクリスマスツリーたちを思う存分眺めて、過ぎていく1年を祝福したい。
スマートフォンの小さな液晶画面の中で光るクリスマスツリーだって、路上に佇む一人ぼっちの少女を微笑ませるのだ。