ムシノメガネ
「私の目で世界や物事を見てくれたら、きっと誤解は解ける」
年老いた皇帝が妃にこう語りかける場面は、ミュージカル「エリザベート」を初めて観た時から強く印象に残っている。
20代後半の頃、フィルムカメラで写真を撮るのが好きだった。
液晶画面がないので、撮影した画像をその場で確認したり、撮り直すことはできない。
何も考える必要がないから、とにかくぱしゃぱしゃシャッターを切る。
円筒のケースに入れたフィルムを写真屋さんに持って行って、現像してもらう。
仕上がった写真には、私が見たものが写っていた。
あの頃、私がフィルムカメラを持ち歩いていたのは、無意識の中に沈む「私が見ているもの」を知りたいと思ったからだ。
花を見ている人のカメラには、花の写真がいっぱいある。
友達を見ている人。猫を見ている人。マンホールを見ている人。家族の寝顔を見ている人。
私の友達のSNSには、植物や空の写真が連なっている。
雨に濡れた葉、灰色の雲の厚み、まだ青く閉ざされた実、木漏れ日が作る曼陀羅模様。
鮮やかに加工された色彩ではないから、写真は所々くすんでいる。
自然が朽ちていく時の、崩れゆく細胞そのままの色合いだ。
ぼんやりとしてピントが合わない緑色の影があり、そうかと思えばしげしげと観察できるほど細密な葉や花が写っている。
舞台観劇を思い浮かべてみる。
お客様全員が、ずっと主役だけを見ているわけではない。
主役の友人役を見ているお客様、後ろにいる村人を見ているお客様。
衣装や大道具をじっと見つめるお客様だっている。
同じ景色を同じ時間に見ていても、まったく同じものを見ているとは限らない。
だから「他人の視界が見える」、そんなメガネがあれば良いのにと思うことがある。
私には私の目しかなくて、実際に他者の目を借りることは不可能だ。
目の前の人の視界を知るには、その人の思いを想像するしかない。
そうしなければ、誤解は大きくなるばかり。
湖の淵に佇む皇帝の切実な願いも、黒衣の妃には届かない。
他者の目線で世界を見ること。
もちろんそれだけでは解決しない問題もあるが、自分の感情や主張でいっぱいになりがちな私にとって、誰かと心を通わせるための鍵穴になる。
植物や空の写真を撮る友達が、こう言った。
「虫の目で、写真を撮ってるんだよ」
虫の目で?
「そう。自然を撮る時にね、虫の目線から見た景色を写したいの。あれは全部、虫の目の写真なんだよ」
巨大な雨粒を避けて逃げ込んだ、葉蔭。
天は高過ぎて、ぼんやりと霞んでいる。
「虫は、大き過ぎる物はぼやけて見えないでしょ。そのかわり、人には見えない小さな物を見てる」
一見、ただの、ピントの合っていない写真。虫の目なんて、誰にも伝わらないけどね。
そう言って、彼女はおかしげに笑った。
「でもねえ」と、友達は続けた。
「虫の目線で見る方が、世界は面白いよ。あと、格好良い写真が撮れる」
黙ってうなづき、彼女の撮った写真をもう一度、見つめる。
雨をまとう白い花びらが、一匹の小さな虫になった私に笑いかけていた。