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ドーラン


 宝塚メイクと呼ばれるお化粧は、宝塚歌劇の大きな特徴のひとつだ。
 宝塚の生徒は男役または娘役を演じ、時代も国も様々な人物の役を演じる。
 豪華なドレスや軍服を身に纏って煌びやかな舞台セットに囲まれるには、それに相応しい特殊なメイクが必要なのだ。
 宝塚歌劇を見慣れていないお客様には、舞台化粧を施した役者たちがみんな同じ顔に見えてしまう。
 でも何度か観劇して少し慣れてくると、誰なのか見分けられるようになる。

 宝塚の生徒はそれぞれが自分の欠点(だと思っているパーツ)をカバーするようなメイクを研究する。
 知的な額を作るために生え際を描き込み、貴公子の眉毛を象り、分厚い付け睫毛を二枚重ねて瞳を咲かす。
 それでも、遠く離れた客席から元の顔貌が分かるのは何故だろう。
 きっと当たり前のことなのだろうが、私はずーっと疑問に思っていたのだ。
 それは不可思議で、少しだけ恐ろしいこと。

 どれだけ濃くドーランを塗っても、そのひとの顔はそのひとの顔である。
 外見を飾って作り込まれた虚構の世界でありながら、舞台に上がった人間は中身まで明らかになる。
 お客様は無意識に(時には極めて意識的に)、舞台に立つ者の素顔、人柄、本質をも見抜く。
 「ええかっこしい」な私が別人に化けたつもりで舞台に立っても、お客様は必ず私を見つけた。

 私は、ありのままの自分を見せるのが苦手だと思う。
 不器量である自覚は充分にあるけれど、それでも少しはましに見えるよう画策する。
 できれば憎まれたくないから、本音を言わずに猫を被ることもある。
 我ながら、ダサい生き方だ。
 「私はいつでもどこでも、少しも自分を偽らずに、自由に生きています!」
 もしもそういうひとに出会ったならば、かっこいいなと思うし、そのひとが信じる道を突き進むことを応援する。
 でも、あまり羨ましいとは思わない。

 ありのままで生きることの素晴らしさを高らかに歌い上げる曲が爆発的なヒットを果たした背景には、そうしたくても出来ない人々の切望がありはしないか。
 『ありのままの自分を見て欲しい。』みんな、そう願っているのだろうか。
 
 
 
 「ありのままの自分が、そんなに良いと思ってるのかな。」
 そのヒット曲について数人で話していた時、こう呟いたひとがいた。
 彼は常に高い評価を受ける多忙なアーティストでありながら、時間があれば自分の後輩のレッスンを受けに行くようなストイックな人物だ。
 自分という人間はこんなものか。
 もっともっと高みを目指せるのではないか。
 終わりなく、努力し続けなくてはならないんじゃないか。
 そんな問いを繰り返して自らを厳しく追い込む孤高のひとが言い切った言葉は、私の心に刻まれた。深い傷のように。

 
 
 なんだかんだ言うわりに、意外と私は晒け出ている。
 人前でも平気で致命的なミスをしでかすし、隠し切れないひねくれ者の本性が猫の隙間から漏れている。
 「特技は、勘違いとド忘れです。」とのたまう、極めてふてぶてしいメンタルの持ち主である。
 けっこう、ありのままで生きているじゃないか。
 いや、そもそも、『ありのまま生きる。』という言葉の意味を取り違えている気がしてきた。
 エルサは、そういうこと言ってるんじゃないのよ。

 
 「ありのままの自分で良い。」それは、自信過剰なひとの開き直りではない。
 不完全だ。
 失敗もする。
 まだまだ中途半端。
 でもそんな君が、良い。
 そんな姿が、美しい。
 自分を信じられなくて一歩を踏み出せない時、強く優しく背中を押してくれる希望の言葉だ。
 だから今日も、世界中のひとたちがあの歌を口ずさんでいる。
 


 本来、わざわざ声高に叫ぶほどのことではないのかもしれない。
 自分らしく生きても良いんだよ、なんていうことは。
 動物や植物は少しの疑問も迷いも持たずに、本来の姿で生きている。
 生き方について頭を抱え、あれこれ思い悩むのは人間だけだ。
 ありのままで生きようとそれほど強く訴えなくては、みんな心折れてしまうのか。
 ならばいっそのこと理想の人物になりすまし、作り笑いを浮かべても良い。
 それでも、そのひとの顔はそのひとの顔にしか見えないのだから。
 

 
 うっかり季節に取り残されて今頃咲いた、うちのベランダの朝顔。
 その花は少しも恥じることなく、秋雨の朝の空を嬉しそうに見上げていた。


読んでくださり、本当に有難うございました。 あなたとの、この出会いを大切に思います。 これからも宜しくお願いします!