母は幸せだったのだろうか?
先日、3日間、検査入院した。暇つぶしに、以前に購入してあった電子書籍を読んでみた。
「最後の医者は桜を見上げて君を思う」(二宮敦人 著)という小説で、なんとしても延命治療を続けて、奇跡や医療の進歩を待つ医者と、そのような確率の低いことを避け、死ぬまでの時間を有効に活用することを勧める医者とがぶつかり合う話。
一応、医療従事者の端くれ(本当に端くれ)としては、こういう小説とか映画とかドラマとかって割と突っ込みどころが多いんだけど、これは、比較的素直に読めた。でも、病院のベッドで読む本じゃないかも知れない。
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私の母は、父と同い年で恋愛結婚である。大正生まれにしては珍しいかも知れない。母は、素直に父の言うことに従っていた。神経質な父に、鷹揚な母が従っているようにおもわせている、ようにも見えるが、恋愛結婚だったので、それだけの理由ではないかも知れない。
父は63才でこの世を去った。その後、母は私の言うことならたいてい何でも聞くようになった。私は母が30歳の時の子供であり、大正生まれとしては高齢の出産とか、やや年の離れた姉二人はいるが、待望の跡取りと言うことで、大事にされたのもあるかも知れない。後でわかったことだが、父の遺言(?)でもあった。
母が80歳くらいの頃だったと思う。胸部大動脈瘤が見つかって、大きな病院で診察を受けた。姉が付き添ったので、詳しいことはわからないが、大手術になるので、体力が持たないだろうと言うことで、本人もそこまでしなくても良いと言ったので、様子見となった。
かかりつけの医者には私がついて行った。医師曰く、動脈瘤が破裂したら、即死。「私が横についていても助からない」と言われた。いつ破裂するのかは、全くわからない、と。
その頃は、私は家を買って別に住んでおり、母は一人で住んでいた。私は毎朝、車で母の住む実家まで行ってそこに車を置き、最寄りの駅まで歩いて通勤していた。朝の様子伺いのようになって、ちょうど良かった。夜は、母はもう寝ているので、会わないで帰った。
体力が衰えてからは、週一で買い物に連れて行ったりした。要支援1だったので、週に何日か、デイサービスに行っていたようだ。
Xデーは、今日か、明日か、と考える毎日になった。ある朝、いつものように実家に行ったら、冷たくなっているのではないか、と。
ある日、午前中にかかりつけ医にかかった後、午後に母から電話がかかってきて、背中が痛いので病院に連れて行ってほしいと言う。背中が痛いのは動脈瘤が原因だ。迎えに行って、その旨かかりつけ医に電話すると、きっと午前の診察で当たりをつけていたのだろう、救急車を呼んで○○病院へ行くように、と言われた。私が連れて行きますが、と言ったら、いや、救急車を呼べ、と。
もう、破裂寸前だったらしい。しばらくその病院に入院していて、少し安定したら、別の病院へ転院になった(最初に入院したのが地域の中核病院なので、慢性的になったところで転院しなくてはならない)。転院先では、看取りでいい、とお願いした。
結構、長くその病院にいた。ある日、偶然、かかりつけ医と道で会った時に「おかあさんは、ご存命ですか?」と聞かれたので、事情を説明したら、驚かれた。こんなに長く持たないかと思っていたようだ。
母は、なんども、こんなに子供たちによくしてもらって、私は幸せだ、と口癖のように言っていた。
7月のある日、午後9時半頃だったと思う、病院から電話がかかってきて、容態が急変したのですぐに来てほしい、という。この場合、容態の急変は死を意味する。
直前の夕食まで、元気に食べていたそうだ。きっと、たいした苦痛なく他界できたのだと思う。背中が痛いくらいで。そういう意味では幸せだ。
でも
救急車で入院したまでは良い。その後、何も考えずに医師の言うとおりにしたが、半年くらいだったか、ベッドの上で寝ていた事は、果たして母にとって良かったことなのかどうか。私がしょっちゅう見舞いに行ったとはいえ、半年間ベッドの上で過ごすより、1ヶ月、いや1週間でも、一人だけど実家で過ごせた方が良かったのではないか………。母が私の言うことはたいてい何でも聞いただけに、よけいに悩んでしまった。
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病院のベッドで、冒頭の本を読んで、こういうことを思い出した。結論は出せていない。再来年の7月は、母の13回忌である。