小説|A Ghost of Flare. #1
不動産屋に案内を嫌がられ、内見なしで契約したこの部屋は、東京都O駅から徒歩五分の距離に位置する1LDKの賃貸物件だ。
広いリビング、南向きの窓、セパレートタイプのバス・トイレ・洗面台。同条件での家賃相場は十五万円ほどだが、斎篁はこの物件を八万二千円という安さで借りている。
理由はもちろん──。
『斎篁先輩、もう出ました?👻』
事故物件だからである。
自殺、他殺、不審死、失踪、心理的瑕疵の大盤振る舞いかというような事故物件に住み始め、何もないまま今日で一ヶ月。
ラインをくれたのは大学時代の後輩だった。
篁がトンデモ物件に引っ越したと聞いて、面白がって毎日様子を聞いてくるようになった。
「何も出ん👻」
篁には霊感がなかった。
人生で一度も、金縛りにすら遭ったことがない。
どんな場所へ行っても何も感じない。
第六感、第三の目、第七チャクラ、全てが閉じているのかもしれない。
幽霊の存在は信じている。
友人たちの中には〝見える〟人が何人も存在しているからだ。
見える人たちの話を聞くことは好きだった。
怖い話から不思議な話まで、たくさん聞いてきた。
一方、ホラー映画は好きではなかった。
わざと脅かしにかかる演出が嫌いなのだ。
来るぞ来るぞと言わんばかりの、あの長ったらしい間も嫌だった。
あまりに長いと早送りにしてしまう。
そして、見逃すのだ。いろいろと。
篁はよく見逃した。
友人や同僚を家に招いたときだってそうだ。
玄関、キッチン、洗面所、風呂場、トイレ、リビング、寝室、ベランダ、これらすべての場所で男の霊が目撃されたが、家の主である篁だけは何も見ていないのだ。
そんな篁に対しては皆、口を揃えて「逆にすごい」と言っている。
何故こんなにも見逃すのか、と。
この家の風呂は広い。
バスタブがでかくて気持ちいい。
篁はゆっくりと湯に浸かりながら、こんなにいい家を相場の四割も安く借りられたことを喜んでいた。
有力候補だった風呂場と洗面所は、今も何一つ変わったことはない。
カタン。
洗面所で何かが倒れる音がしても、ジェットバスを楽しんでいる篁には当然聞こえていない。
篁は日々、奇跡の見逃し率で平和に暮らしていた。
さっぱりとした気持ちで風呂を出た篁は、今日もほかほかと身体の暖かいうちに就寝する。
* * *
自ら死を選んだ者の魂は永遠のループに陥る。
二十数年の人生を、おれは五分置きに繰り返していた。
記憶の中の過去を遡ることはいくらでもできる。
十分前、この家に帰ってきた。
二十分前、駅で財布を拾って交番に届けた。
三十分前は電車に乗っていた。
いくらでも過去を遡ることができるというのに。
気付けばいつも、輪っかに括った縄の前に立っていた。
全く同じ人生を繰り返し、全く同じ最期を迎える。
最も苦しい最後の5分を延々と繰り返す。
小さな脚立の上に立ち、ゆっくりと首に縄をかける。
遺される者のことなどは何一つ浮かばない。
津波のように押し寄せる絶望の前では、どんな記憶も歯が立たない。
食事のときに箸やスプーンを手にするのと同じように、おれはただ、絶望の前に当たり前に置かれた死に手をかけただけなのだ。
腹を満たす食事と、心を満たす死。
どちらも正しい答えだ。
幸せになるための、答えだ。
カタン。
* * *
(続く)