日々同じものを眺めてみた、(終わり寄りの)途中経過。
X(twitter)で日々、タロットカードを眺めて、浮かんだことを投稿しています。
はじまりは
大元の始まりは昨年の11月くらい。
タロットの知識もないまま、そしてまったく勉強しようともせず、よく続けたもんだ。笑
noteにまだちゃんとまとめていた頃。
あともうちょっと残っていて(12月末で終わるかな)、noteにまとまってない分の方が圧倒的に多いのだけど。
(これから、以降のところが、X(twitter)で投稿したまま、投げっぱなしジャーマンでした)
そんなこんなで、続けたから感じたことを、流れないように、と思って、またnoteを書いています。
(最近たくさんnoteを書いていて、毎日投稿になるのでは、10月はいけるか?という目論みも浮かんでいる笑)
同じものを眺めることをしてみて。今の体感
必ずそこに書いてあるのだ。
見たいときに見えるかどうかは別として。
見るべきときに、気づくべきときに、それはあらわれる。
見えてしまったら、どうしてこれが見えていなかったのか、と思うけれど、それはそれで、それしか見えなかった(まずはそこを見る必要があった)ということ。
ある種、真理でもある気がして。
(あくまでもわたしの中での)
ないのではなく、必ずある。
ただそれがあらわれるタイミングは、自分が思う通りではない、ことの方が多いだろう、し、コントロールしようとすることすら、傲慢なのか。も。
こんなことばでは片付けられない事象もたくさんある。
きれいごとだけではない。
ただ、きれいごとだけではない、という思いとともに、この、真理にも見えるなにかは、わたしの中で共存している。
全幅の信頼をおきながら。
どこまでもどこまでも、傾いて、迫って、肉薄していく。
(これは、この前、「傾聴」とは、ただ上っ面をなでることではなく、傾いて傾いて相手に迫って肉薄したところからことばが出てくるのだと、生易しいものではないのだよと、教えてもらったときの感覚が、強く影響してる。)
どこまでも、どこまでも、自分に迫っていく。
自分自身へ、全幅の信頼をおき、そして迫っていく。
じりじりとにじりよっていく。
もしかしたら、そんな作業だったのかもしれないな、と今は思っている。
まだ残りのカードもあるし。
今後どう展開するかわからないけれど。
今の感触を。
(余談)
昨日、「バッドランズ」という映画を観てきて。
とてもとても、好きだし、でも、とてもとても、大きく揺さぶられたと思うから、その影響も多大にあるかもしれない。
見終わって、余韻に浸ると思いきや、スマホの行方わからず、バックひっくり返したり、閉館間際の映画館に戻って探させてもらったり。
という一件もあり。
「わたしのいきるって?」と思いながら、よくわからないまま、号泣しながら、笑いながら、家に帰りましたとさ。
(スマホはちゃんとバックの中にありました。いつだってちゃんとあるのでした。)
ちゃんちゃん。
(あれ、カードのはなしだったのにな笑)
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