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『結ぶ——夢中文字の怪』 中篇ノ壱

“刺青のごとく家紋がはりつきて青ざめてゐむ彼らの背中“

──寺山修司『田園に死す 家出節 家畜たち』より


久保田ひかる

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中篇ノ壱


十四

 朝九時、多気町VISON前にバスは到着した。
 一歩降りれば周囲には、整理された木々と、土が剥き出した道が伸びている。えらく人の手が入り込んだ一画であるが、提橋の感覚では、殆ど山中と言って差し支え無い。彼は傍らで体を伸ばしている山咲に目をやった。バスに乗り込む前にメイクを落とし、直前まで眠っていた山咲はいつもと違う顔をしていた。今更になって、目の前の女が自分より七つも年下なのだという事が提橋の倫理観を刺した。
「よく寝てたね。」
「夜行バスは遠征で慣れてるんで。提橋さんは?」
「まあ、なんとか……」
 嘘だった。提橋は、人生で初めての夜行バスで殆ど眠れぬ夜を過ごしていた。バスが揺れれば目を覚まし、SAに到着するたびに目を覚ました。疲れこそあるものだから、その都度すぐに眠りに落ちはしたが、彼の体はむしろ疲れているようだった。
 彼にとってはもう随分と昔、高校時代の夏の日。授業中の教室、臭いも熱気も体勢も満足のいくものが何ひとつない空間で、睡魔に負けて眠ったあの頃の記憶が生々しく蘇る夜だった。

「じゃあ、ここから高速バスに乗って伊勢に行きましょう。」
「そうか、まだバスなんだね……」提橋は肩を落とした。
「落ち込まないでください。今から行くのはじいさんの家です。もしかすると、あの本は一冊だけじゃないかもしれませんから。二冊目以降があるとしたら、じいさんの書斎です」
 そうか、と提橋は驚いた。あると決まったわけではないが、もし見つかればとりあえずは提橋の首が繋がるのである。求められているのは同じ中身を持った本であって、原田と消えたあの一冊ではないのだ。

 遠くの方では、迎えらしい自動車が数台見える。親族でも待っていたのだろうか、えらく剽軽ひょうきんな動作でぶんぶんと手を振っている中年の男が楽しげだ。
 男は、おおい!いたいたあ、と叫びながらバスの方に駆け寄って来る。遠くに見えた男の影が、風貌から来るイメージよりもずっと速い速度で駆け寄ってきていた。
 ふと、提橋が山咲を見ると、彼女は見たことのない顔をしていた。それは、怯えとも嫌悪とも似て、彼女は——凍りついていた。
「美愛さんどうした? バスの時間でも間違えた?」
 タクシーでも構わないよ、と言った提橋の声は、先の出迎え男の呼びかけでかき消された。男は疾駆する速度を緩めぬまま、山咲に激突しかねない勢いで近寄ってきている、しかし山咲は相変わらず凍りついたまま、

——危ない!

 提橋は、身を挺して男と山咲の間に飛び込んだ。

 しかし、彼の体に何かが激突することはなく、勢い余った提橋は体勢を保てず地面に手をついて転んだ。
「あああ、提橋さぁん、大丈夫ですか? 怪我してませんかあ?」
 振り返った提橋に見えたのは、あの失踪する男のおろおろと取り乱した姿だった。
 男は脂っ気のない顔を情けなく歪めて、凍りついた提橋の前で無意味に腕を振っていた。
「——どうして……いるの? あさじさん、」
 背後の山咲が、噛み潰したような声をあげた。
「ええと、久しぶりだねえ、芳子ちゃん。もちろんお迎えに来たんだよお」
 あさじと呼ばれた男は、初老と呼んで差し支え無い顔に、弱々しい笑みを浮かべて挨拶した。何が起きているのか分からない提橋は堪らず山咲に問うた。
「美愛さん、こちらは?」
「……中松なかまつ朝爾あさじさん」
「よろしくねえ、僕が中松朝爾ですう。そこの美愛ちゃんのお母さんの尚子さんのぉ、その妹の茅子が僕のお嫁さん。まあ、その茅子はもう死んじゃったんだけどねえ」
 朝爾はまるで初恋の話でもするかのように、頬を染めてアハハと笑った。
 山咲の叔母一家の名前を聞いていなかったことを、提橋は今になって思い出した。確か叔母の茅子家族には、他に娘もいた。
「ええと、車あっちだから、行こう行こう、」
 その貧弱で気弱そうな印象と裏腹に、朝爾は一人踵を返すと、競歩の如き猛スピードで歩き始めた。怯えた様子の山咲も、怪訝な顔をした提橋も意に介さずに。

 仕方なく歩き始めようとした提橋の袖を、背後の山咲が弱々しく掴んだ。
「——私、呼んでない。……来ること、言ってない。和巳さんのことも」
「……行こう。」
 提橋が改めて手を差し出すと、彼女はそれを払った。

「……ああもう、行くよ。行く!」
 歩き始めた山咲は腹の決まった顔をしていた。胸に傷を負った提橋をよそに。

十五

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7,786字

行街で発表された小説です。

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