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迷惑という呪縛━━人間のフレームワーク①

紫乃羽衣

電車で移動している時のこと。

乗客が多く、それなりに立つ人間が出ていた。
かく言う自分も立っていた。

乗り始めてから2駅ほどしたところで
「ちょっとお座りになって」と、おばあさんが手招きをしていた。

呼ばれた相手は、私の後ろに銀色の棒に掴まりながら立っていたおばあさんだった。
立っていた方は「いえいえ私すぐに降りるから」というのだが、呼んだ方は「私もよ。それでもね、座った方が絶対いいのよ」と言って半ば押し込むように座らせていた。

おばあさんがおばあさんに席に譲るという光景を見た。以前にも似たようなものを見たことがある。しかし、今回起きた目の前にあった譲りに、どうも違う感覚を持たされた。

席を譲るということに関して、周囲にいた若者に言及したくなるかもしれないが、義務でもルールでもないものを強要する方がおかしい(とはいえ、私は余程のことがない限りは譲るとは書いておく)。第一、見た目が若いだけで、その日とんでもなく具合が悪い人たちなのかもしれず、すでに席を譲ってから1時間立っていたところから、やっと座った人なのかもしれない。見えないのだから、別に何も思わない。

ただ「座った方が絶対いいのよ」という言葉を聞いた時、少しだけ何かを掴まれた気がした。真っ先に思ったのは、”絶対”とは何の根拠があってということだった。それでも、お互いに「すぐに降りるから」とか「私も次の駅なのよ」とか言い合いながらも譲るという行為には、悪い気がしなかった。

なるほど。
善意には、根拠などなくて良いのかと。

変に利口ぶることで善意をしないことを正当化するよりもぶつかって迷惑と言われたほうがいいのだろう。
それは、善意という自己陶酔と言われるかもしれないが、それでいい。

迷惑になると良くないから、”迷惑じゃないかもしれないけれど”やらない。利口な人たちには、この”そうではないかもしれない可能性”が見えていない。

結局のところ、善意とは最終的に自らのために行うという点では、善意を押し付けるのも、善意を引くのも迷惑の確率は同じであろう。

ただ一言「どうですか」と聞くだけで解決する迷惑なら、その機会を失うよりも良いものに思える。



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