『結ぶ——夢中文字の怪』 前篇ノ弐
久保田ひかる
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前篇ノ弐
八
「それで、盗まれたってなんだい? 失くした、じゃない説明から聞こうか」
提橋は、鹿園の視線に射竦められていた。殆ど無に近いその目の中に、提橋は哀れみと蔑みを錯覚した。
「経緯を説明させていただきます。そもそも、私があの本をお借りしたのは、友人の原田という男から見せてほしいと頼まれたからでした。昨夜その友人に本を見せ、そのまま友人宅で酒を飲み、今朝目が覚めると——彼と本が消えていました。」
「あのさ。あの本を買い取ったのは昨日だ。それに昨夜一晩かけて僕もそれなりに色々調べたが、やっぱりあの文字はあの本独自のものと思われる。まあ、特殊な部族のもので記録に残っていない、なんて可能性もなくははないが限りなくゼロに近い。そんな本に、突然話に出てきた友人が興味を持ったと? 買い取ってから君が本を借りに来るまでたった数時間だよ?」
「そこは、信じていただけるか分かりませんが……」言い淀んでいる提橋を、鹿園の目が刺す。「友人は、あの文字を知っていたんです。」
ぎゅっと鹿園の眉間に皺が寄った。胡座の膝にだらりと垂らしていた腕をじっくりと組むと、どういうこと、と短く言った。
「それが、原田はその文字を夢で見ている、と言うんです。それももう随分と前から繰り返し」
「そんな馬鹿な話があるか」
「確かに、信じられない話だとは思います。しかし、長年の友人として言えば彼の夢への悩みかたは本当でした。あの隈は、」
ちょっと待って、と鹿園が遮った。
「時系列が分からない。順番に話して」
「まず、私と原田は大学時代からの友人です。もう一三,四年の付き合いです。」
「そんなに遡らなくていい」
「では……一昨日、ですね。二ヶ月ぶりに彼に会いました。夢の話を聞いたのはその時が初めてです。繰り返し同じ夢を見るのだと言っていました。夢には知らない文字が出てきて、それを夢の中の原田は確か読めるのだと。しかし、読むとともに目が覚めてしまい目覚めた後には、発音も意味も忘れてその文字だけを覚えているのだそうです。」
それは確かかい、と鹿園に問われて、提橋は反射的にはいと答えた。何か、拍子を乱してはならないというような脅迫感があった。
「原田が、嘘を言っていたとは思いません。あの男も一応は三〇を越した大人です。それが、本一冊の為に失踪なんてするものでしょうか?」
「それも僕には信じられない。失踪とか消えたとか言うが、確かめたの?」
提橋はここに至って、自身の認識がオカルトに寄っていることを、ようやく俯瞰し始めた。
「いえ、それは……書き置きがあったんです。」提げた鞄から一枚のコピー用紙を取り出すと、鹿園に手渡す。
「本は貰っていく 俺の見ていた文字は確かにこれだ 今は読み方も、意味も、全て思い出した 迷惑をかけてごめん──雑な文字だ。君の言っていたストーリーと照合するなら、その友人は夢と同じ文字が書かれた本を読んで、そこから何か啓示を受けた、って事かい?」
提橋は「ええ」と、「まあ」の混ざり合ったような返事をした。間抜けだ、羞恥で赤くなった顔を汗が垂れていった。
鹿園が静かに目を閉じて、一つため息をついた。この沈黙は長丁場になるかと提橋は身構えたが、鹿園は軽く頭を振ると目より先に口を開いた。
「じゃあ、今日から三日間あげよう。その間に本を返してくれたら、それで僕は許すことにしよう。三日間は最大限に譲歩した日数だ。友人が持って行ったなら探せばいい。」
猶予が、あるのか──提橋が初めに抱いた感想はそれだった。
「三日が、過ぎた場合には、」
「三日を過ぎた時にはもう君はここに来なくていい。……言っておくが、これは温情などではないよ。僕は単になくなった本が惜しい。七万円もそうだが、おそらくあの現物を逃したらそう簡単には再会できない代物だろうからね。そして、その本の窃盗に──経緯は別とするが──君の友人が大いに関係している事は確かなようだ。それなら、僕より君が探す方が早い。だから、君に真剣に探そうと思ってもらわなきゃいけない。」
「はあ、」
「ああ、勿論君が本を持ってきた場合に、今回の件絡みでやっぱりクビだ、何て言うことはない。それは約束しよう。」 鹿園は傍らに置いてあった一冊の古書を広げた。
話の終わりを悟った提橋は、今他に言っておくべきことがなかったかと頭の中を必死に洗う。彼の口から零れ落ちたのは、彼にも説明がつかない言葉だった。
「山里……芳子、」
「ん? なんだい」
「いえ、ええと……あの本がもし貴重なものだったとして、それを原田が偶然知っていたとしたら、原田ではなく本を追うのも有効か、と思いまして……あの本を持ってきた山里芳子に連絡を取りたいのですが、買取確認書……見てもいいですか?」
「君、流石にその発言は良くないな。うちの店の買取確認書には、“古物営業法第十五条を目的として”と記載してある。私的に使用するなど認められない。」
「申し訳ありません、気が動転しておりました。」
「──とにかく、三日間だ。早く本を返してくれ」
提橋は失礼します! と頭を下げると、転げるようにして店を出た。
緊張から解放された提橋は、ひどくタバコを欲していた。しかし、流石に店舗裏の灰皿を使うのは躊躇われ、車内に戻って吸うことにした。
薄く窓を開けていても、車内の空気はすぐに白濁する。わざと声に出してはあとため息を着くと、幾分首元の緊張が解れた気がした。
三日間、か──探せと言われて出てきたはいいが、提橋にも宛があるわけでもない。先ほどの意識が転倒したような失言で、本から伸びた唯一の線も絶たれてしまった。いや、初めからなかったのだ、と彼は思い直す。
短くなってきたタバコを灰皿に捨て、シフトレバーをDに入れる。そして、思考という思考もないまま行き先を決めた。目的地は原田家だ。
犯人は現場に戻る、なんて言葉もある。原田が犯人だとすると、自分は探偵か、などと考えた提橋の頭には、天知茂の明智小五郎や、石坂浩二の金田一耕助の姿が浮かび、そして次の瞬間には鹿園の前で感じた羞恥心がフラッシュバックした。
人探し、失せ物探し、この仕事は物語の名探偵じゃなく現実の興信所向きだ。
幾分か引き締めた顔をして、提橋は車を出した。
九
原田の家の鍵は、提橋がさきほど慌てて出ていった時のままに開け放してあった。
ドアを開けると、先ほどは見落としていた下駄箱の上が目に入った。
そこにあったのは、「お詫びに 〇四五七」と走り書きされた裏返しの名詞とキャッシュカード、それからこの部屋の鍵だった。どうやら犯人に戻ってくるつもりはないらしい。それに、原田は提橋に気を遣う程度には冷静だったようだ、それが提橋の感想だった。
彼の失踪を、それもきっと見つからないような場所へ消えてしまった事を予感しながらも、提橋は彼の行きそうな場所を確認することにした。
玄関に置き去りにされたメモ代わりの名詞と、家探しの中で発見した賃貸契約書の保証人欄から、会社と父親の電話番号を見つけ出すと、最初の確認を始めることにした。
原田の父は、彼とは姓が違った。原田との法律上の家族関係はもう八、九年も前に切れている。彼の両親は、母親の神経症から来る不和で離婚をしていた。
母親が統合失調と診断されたのは、離婚から三年後、原田が二六の時だった。その母親も、二年ほど前に心臓を悪くして急死している。
この話を、提橋は当時の原田から何度も何度も繰り返し聞いた。二〇代後半の忙しい時期を入院中の母親の世話と、忙しない仕事に吸い取られた当時の彼には、自身が以前話した内容をきちんと覚えているような余裕はなかったらしい。提橋はいつも話半分に聞いていたが、それでも内容は覚えてしまった。
原田が引越しをしないお陰で、彼の保証人欄は古い父のままだった。一〇年の時は流れているが、父の携帯電話番号は変わっていなかった。
──「申し訳ないねえ、由貴に最後に会ったのはもう八年、かな? それくらい前でね。分かる事は何もないかな。それに多分、由貴がいなくなるにしても私のとこには来ないよ。今の私の住所も知らないだろうしね。」
「そうでしたか、お忙しいところすみません。」
「君も災難だったね。何か貸したものがあったって話だったろう? まあ、残念ながら私は力にはなれない。奴ももう三〇過ぎたような歳だろう? 本人の責任だ」
苦手なタイプだ、電話を切った提橋は妙に卑近な消耗を感じた。原田の親族には元より期待をしていなかったが、外れ方が想像と異なっていた。
もし自身が原田の位置だったら、きっと両親からは「借りたものを返しなさい」という怒りのメッセージが飛んでくるだろう。提橋の中には、原田に対する同情のような気持ちが生まれて、そんな気持ち自体がひどく不快に思えた。
不快感に浸る前に仕事を片付けてしまおうと、彼は会社へも電話をかける事にした。そしてスマートフォンを耳に当てたところで、しかし、と考える。
父親の場合と違って、会社には原田への社員としての信頼がある。あの男が帰ってくるつもりかは別として、下手な発言をすればそれを損う事になってしまう。原田が消えてまだ数時間、果たしてどこまで何を、——そこまで考えた所で、通話が繋がってしまった。
「はい、フクジン生命保険会社、葉山でございます。」
「もしもし、お世話になっております。そちらに原田由貴さんはいらっしゃいますでしょうか?」
「申し訳ありません。生憎、本日原田は休みをとっております。」
葉山と名乗った女の返答は早かった。葉山から別の人間に対応させるか問われたが、提橋はその申し出は断った。
「では、差し支えなければ、お名前とお電話番号をお伺いしてもよろしいでしょうか? 後日原田から折り返しご連絡させていただきますので」
「ああ、ええと提橋です。電話番号は〇九〇-一二〇七──」
しまった、と提橋は感じていた。本当の名前も電話番号も伝える必要はなかったのだ。滑り込むようにして、電話番号の下二桁に嘘を言った。
「提橋様、ですね。誠に恐れ入りますが、御社名もお伺いしてよろしいでしょうか?」
提橋はええと、と言葉に詰まった。嘘がとっさに思いつかなかった、というより何を言うべきか判断が遅れた。すると、電話越しの女がおずおずと声を出した。
「申し訳ありません、もしかして──提橋和巳様でいらっしゃいますか?」
突然名前を呼ばれて、反射的にはいと答えた提橋の声が裏返った。
「提橋和巳様ですね! 良かった、実は原田から提橋様宛の資料をお預かりしておりまして、出来れば直接会ってお渡ししたいのですが、ご予定はいかがでしょうか?」
「資料……原田から?」
「確かに提橋様にとお預かりしております。出来るだけ早く渡すようにと言われておりまして」
何か、変だと感じた。自身宛の書類の中身も想像がつかなかったが、それ以上にいつそんなものを用意したのかという点が提橋には引っかかった。何にせよ、時間的猶予がない提橋には考えるより先に確認する方が重要に思えた。
「では、本日の受け取りは可能でしょうか? 私の方でそちらに受け取りに行きますので」
「でしたら、本日の夕方一八時頃に来間駅近くの『マナナン』という喫茶店でいかがでしょう? 申し訳ございません、私の方がこの後予定が詰まっておりまして……」
提橋はその申し出を了承した。原田と自身のせいで、この葉山という女性に時間外労働を強いる事への申し訳なさこそあったが、彼女の提案を断るほどには彼には余裕がない。
二件の電話を終えて時計を見ると、時刻は午後二時を示していた。駅に行くなら車は置いていった方が身動きが取りやすいだろうと思って、ふと原田の車の行方が気になった。
駐車場へ見に行くまでもなく、車の行方は判明した。靴箱に置かれた部屋の鍵には、キーリングで車の鍵もぶら下げてあった。
グレーのコンパクトカーは駐車場に取りに越されていた。だからと言って、何か手掛かりになるわけでもないのだが、提橋は自身の発見に少し気分が良くなった。
車内を物色したが、目ぼしいものはない。運転席のドアポケットに未開封のラッキーストライクを見つけて、提橋はそのまま車内で一本吸った。彼の常喫であるハイライトと違い、辛い乾いた味がした。
——お前のことは、もっと詰めの甘いやつだと思ってたんだけどなあ、うまく消えたもんだ。
十
夕方の駅前は犇あう居酒屋の活気で賑わっていた。
提橋が来間駅に着いたのは、まだ葉山との約束まで三〇分も前だった。
地図アプリで待ち合わせの『マナナン』を調べると、駅の南口方面、所謂繁華街を五分ほど進んで一本路地を折れた辺りだった。仕事の要件で、女性が相手を呼び出すには妙な店選びだと思いつつ、提橋は歩き出した。
薄曇りの中に並んだ安っぽい古ビルには、どこもかしこも妖艶な笑みでキツいメイクの女性が笑いかけた広告が貼り付いている。赤貧でもないが金が余りもしない提橋には縁遠い世界である。随分と長いこと女性の肌に触れていない自身を省みつつ、居心地の悪さから下げた目線の先には、踏み潰された吸い殻と空の酒瓶が転がっていた。
喫茶店に通じる路地は更に歩きづらい空気を纏っていた。中華風の門扉を持った『歯噛堂』、屈強な外国人男性たちが静かにカウンターに並んでいた『摩耶‘s Bar』、店頭の棚に並べられた薬品の箱が総じて日焼けしている『坂髭薬局』、周囲から浮き立つくらい現代的でポップな看板が掛かった『ハナファインナンス』、誰が何に使うか分からないナントカ会館に、立体的な髑髏で装飾された看板が目を引くダーツバーに、刺青の入ったポニーテールの男が入り口前でタバコを吸っている音楽スタジオに——そんな通りの突き当たり、卓子で言えば主人役の位置に、喫茶『マナナン』は大人しく収まっていた。
「——いらっしゃいませ」
控えめなステンドグラスに飾られたドアを開けると、フォーマルな制服を着込んだ小太りの店員が笑いかけてきた。
おひとり様ですか、と問われた提橋はちらと腕時計を確認する。
「ちょっと待ち合わせをしてまして、一八時くらいに約束相手の女性が来ます。」
「では、テーブル席にご案内いたしますね」
店員に誘われて席に向かった。各席同士はお互いの視線を遮る程度に区切られている。テーブル席はファミリー向けの焼肉チェーンか町の中華屋を思わせる造りだった。ちらりと見えた二組ほどの客達は日中どこで暮らしているのか提橋には想像もつかないような雰囲気を纏っていた。
案内された席に着くと、店員は丁寧にメニューを差し出してきた。
「もし、お決まりのものがありましたら今お伺い致しますが」
「あ、じゃあホットのブレンドで。ブラックで大丈夫です。」
「かしこまりました。ブレンドホットですね。ミルクとお砂糖はよろしいということで」
「はい、それでお願いします」
メニューはこちらに置いていきますねと言って、軽く頭を下げると店員は下がっていった。
届いた珈琲も飲みやすい温度になってきた頃、店の入り口の方から「待ち合わせです」と女性の声が聞こえてきた。その辺りから提橋は、ただでさえ居心地の悪い気分に拍車がかかった気がした。
現れたのは、オフィスカジュアルに身を包んだ小綺麗な女性だった。昨日からそのままのシワになったシャツを着ている提橋とは大違いに、メイクも髪も柔らかに整えられている。
「提橋さんでいらっしゃいますか?」腰を浮かせた提橋に、女は問いかける。その目はひどく不安そうな色を浮かべていたが、視線はまっすぐに彼へと向けられていた。
「ええ、」
「フクジン生命で、原田の部下の葉山美樹と申します。」
「原田の友人の、提橋和巳と申します。」
頭を上げ、腰をやや折った姿勢で固まった葉山と、後頭部に手を当てた提橋との間に膠着した空気が流れ、提橋は慌ててどうぞと席を進めた。
「何をお飲みになりますか?」
「提橋さんは何を? お代わりはいかがですか?」
「あ、私はブレンドです……じゃあ、もう一杯貰おうかな」
提橋はカップに薄く残っていたコーヒーをぐいと飲み干した。その様子に、葉山が不安を越して悲痛な顔をした。
「ちょうど、喉が渇いていたので」喉が渇いていたのは本当だった。提橋は続け様にグラスの水も空にした。
葉山はぎこちなく微笑んで、それから店員を呼んだ。例の小太りの店員は、葉山の消え入りそうな声でもきちんと聞きつけてやってきた。
「——今日は、お時間をいただきましてありがとうございます。」葉山は机に額が付きそうなくらいに深々と頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそありがとうございます。原田も私に渡すものがあるなら直接にしたら良いのに、葉山さんにもこうしてご足労いただいてしまって」
やりづらい、提橋は既にこの会談を持て余していた。彼の言葉にも、葉山は一向に顔を上げる気配がない。
「——嘘なんです!」
葉山がバネ人形のような勢いで顔を上げた。
「嘘?」
そこへ、二つのコーヒーカップが運ばれてきた。店員が退くまでの間、じりじりと時間が流れていった。
提橋は腕時計の秒針の音を聞いたような気がした。
「嘘、というのは」
「ないんです。原田さんからの預かり物なんて」
ごめんなさい、ともう一つだけ謝ると、葉山は堰を切ったように話し始めた。
「実は、どうしても提橋さんに相談したい事があって、それで今日、由貴が休みの時に提橋さんから電話が来たから、これは運命だと思って」
「ちょっと待ってください、今、由貴と仰いましたか? 原田のことを、」目の前の女性は、原田の部下と名乗ったはずだ。その上で、名前を呼び捨てにする関係性など極限られるが、提橋にはそれが信じられなかった。
「あたし、原田さんとお付き合い……みたいな関係にありまして……」
提橋の怪訝な顔を見て、葉山は更に言葉を継いだ。
「いえ、あの所謂そういう関係ではないんですが、あ、そういうと言うのは恋人じゃない方のあの……」
「ええ、ええ、続けてください。」
「お付き合いしてるのと同じように過ごしてたんですが、何度聞いても、由貴は付き合ってるって事をはぐらかすので、こんな言い方に」
「とりあえず、葉山さんは原田の彼女、のような方と言うことは了解しました。相談、というのはまさか原田の事、恋愛ごとですか……? 失礼、タバコを吸っても良いですか?」
提橋は、葉山の前だからと我慢していたタバコを胸ポケットから取り出した。
「ああ、気にせず吸ってくださいね。由貴もいつも吸ってますから、あたし慣れてます。——それで、相談事言うのは、その通りなんですが、提橋さん何か由貴の……最近の女性絡みの話って聞いてませんか?」
「それは、その、浮気ということでしょうか?」
「そうなんです。実は最近、由貴が何か忙しそうにしてて、全然会えてないし、返信も遅くて。あたし、由貴から会社の人にはこの付き合ってる……ようなことを言うなって言われていて。あ、今日このお店を選んだのもそうなんです。由貴に昔連れて来られた喫茶店なんですけど、ここなら絶対に職場の人も来ないから。……でも誰かにどうしても相談したいって思ってたら、提橋さんから今日電話があったんです。」
提橋は肩を落とした。話は見えたが、彼の期待したような情報は葉山からは得られそうになかった。
「申し訳ありません、私も原田とは女性の話なんかしないもので、なんとも。ただ、これは葉山さんもご存知かもしれませんが、あいつはどうも最近は夢について悩んでいたようで」——夢という言葉に弾かれたように、葉山が「そうなんです!」と発した。
「夢で私も確信したんです。一ヶ月くらい前に由貴すごい疲れてて、職場で倒れたことがあって。その日仕事が終わってから、私お見舞いに行ったんです。彼は家で寝てて、その時寝言で『リナ』って呼んでいて」——今度は提橋の方が食いついて聞き返す番だった。
「待ってください。原田は、『リナ』と寝言を言っていたんですね?」
「ええ、確かにリナって、あたし忘れません。」
一月ほど前なら、原田は確実に謎の夢の症状が重くなっている頃合いである。職場で倒れたのも不眠やストレスのせいだと考えれば辻褄が合う。そうであれば、「リナ」というのは夢に出てきたナニカなのか。原田が見ていた文字は“リナ”と読むのだろうか——提橋は、一人で考えを巡らせた。目の前の女に意見を求める気にはなれなかった。しかし、葉山からはそんな提橋の様子が何か隠し事を言うか否か迷っているように映ったらしかった。
「……あたしその日、寝てる由貴のスマホ見ちゃったんです。すぐ起きちゃったから、メッセージまでは見られなかったけど、画面開いたらヤスエって町について調べてて、多分リナって人、そこに住んでるんだと思うんですよ。あたしも後で調べてみたら、どうも関西の方にあるみたいで。遠距離だったら、由貴もすぐに諦めるかと思ってたんですけど、結局最近は全然会えてないし……提橋さん、何か知ってるんですよね?」
——どうやら、原田は元々今日の有給を取っていたらしい。葉山はまだ彼の失踪を知らなかった。
何か分かったら教えてください、と言う葉山と提橋は連絡先を交換した。コーヒーカップも空になり、彼は結局失踪の事を何も話さないまま葉山と別れた。
十一
提橋は一人、歓楽街を歩いていた。
葉山はそのまま喫茶店で夕飯を食べて行くらしかった。
何か見落としていないか、そればかりが提橋の頭の中を巡る。原田の夢はどんな内容だったか、文字が浮かんでいる、という話だったはずだ。
薄暗いような汚い部屋、浮いている謎の文字、夢の中でだけ分かる言葉の意味と読み、そしてリナ、ヤスエ町——何か忘れている。そうだ、原田はあの日何かもう一つ言っていた、何か、そう確か——蛹、と言っていなかったか、
「お兄さん良かったら飲んでいきませんかー?」
突然降ってきた声に、提橋は俯いた視線を上げ、そして目を見開いた、
そこには磁器人形がいた。
安っぽいコスプレ衣裳の制服の上からボアの黒いブルゾンを羽織っていても、そのくっきりとした黒基調のメイクを施した顔は、昨日の磁器人形──山里芳子だった。
山里は一瞬、提橋の顔を睨むようにしてから、昨日の店員さん? と零した。
「そうです、山里さんですよね? 昨日、リサイクルショップに本を持ってきた山里さん!」
思いがけず大きな声が出た。周囲の人間が何かふざけたものでも見るようにこちらを向いた。
「あの、ここで山里って名前出すのやめてもらっていいですか? 私、ここでは『ちかほ』なんで」
山里は迷惑そうな顔をしながら胸元のネームプレートを見せた。黒字にピンクの縁取りがされた平仮名で、彼女の源氏名が書かれていた。
「ごめんなさい、……ちかほさんはここで働いてらっしゃるんですか?」
「そうですけど、……ていうかお兄さんお金あります? 一人なら飲んでってくださいよ。一時間四千円で飲み放題」
「お金、下ろしてきてもいいですか?」
「カードとかも使えるけど?」
「五分で、五分で必ず戻りますから、ちょっと待っていてください」
怪訝そうな顔の山里をよそに、提橋は通り沿いのコンビニへと全力で駆け出した。キャバクラもガールズバーも行ったことのない彼には、手持ちに現金を持たずに乗り込むことは心細かったし、それに彼には必要経費を捻出するためのキャッシュカードがあった。
監視カメラ相手に妙に緊張しつつ、原田の口座から五万円を引き出す。
そして提橋は、ツイてる、かもしれないと一人呟いた。小さく付け足したような一抹の疑いが彼の冷静さを引き戻す。提橋の中で昨日の彼女の台詞が鮮明に甦った──「ヤマンです。矢印の矢に、末っ子の末で矢末です──矢に末、ヤスエ、葉山はそれをスマートフォンの画面で見たと言っていたではないか。ヤスエは本来、矢末だったのではないか……?
十二
ガールズバー『ウィステリア』の薄暗い店内には、バーカウンターと四人がけが二組ほどのテーブル。提橋の他には、二人組のサラリーマンがいるだけだった。
提橋はカウンターの一番奥に隔離されるように座らされている。
山里はカウンターのあちら側でピーチウーロンのグラスを揺らしていた。提橋はその手首に線上の傷を見た気がした。
「──で、和巳さんはその原田さんとか言うお友達を探してると」
山里は聞き上手だった。提橋は聞かれるままに次々と話した。原田の夢のこと、彼女の本のこと、鹿園から下った宣告の事、順に話すと少しずつ頭が整理される気がした。それでも、葉山から聞いた話は伏せておいた。矢末に纏わる話まで出しては、出来すぎている気がしたのだ。
キャスドリ、という単語を提橋はその日初めて知った。山里が提示した一時間四千円には、提橋のセット料金に、山里が注文する酒の分も入っていたらしい。「どうせお兄さん、システムなんか知らないと思って」と山里は笑った。「それに、お兄さん私のこと好きでしょ。昨日めちゃくちゃ挙動不審だったし」とも言った。昨日の怯えた動物のような態度は、目の前のちかほにはなかった。いつの間にか、提橋も“お兄さん”から“和巳さん”になっている。
「──あんな本のせいで、一人は行方不明で、一人は無職になりかけて。本当に死んでも迷惑撒き散らしてんだ、あのじーさん」
「そんなに酷い人だったの?」
「まあ、相当ね」山里はちらりと視線を動かした。提橋が釣られて見ると、先のサラリーマン風の男たちが複数のキャスト達と楽しげに騒いでいた。
「じゃあ、和巳さんさ。もしだけど、一万円出してくれたらもう少し色々教えてあげるよ。」
山里は左腕につけた細身の腕時計に目を落としながら言った。
「ごめん、どういうこと?」
「良いから、今決めて。先に言っておくけど、私の話が役に立つかは知らない。でも、話しが何もないわけじゃない。一万円出したら、今から全部話す。」
提橋には一万円という金額が何を指すのかも分からなかったし、それによって何が起こるのかも分からなかった。しかし、目の前のちかほは手放すには惜しい糸であった。
彼が、下ろしたての一万円札を財布から一枚抜き取って渡すと、彼女はちょっと待ってて、と言って裏に戻っていった。
ビールを一人でやりながら、今日電車で来たのは正解だったとそんな事が頭を過った。
しばらくすると、一人のご婦人が奥から現れた。アッシュグレーに染めぬいた髪に、同色のパンツスーツを纏った細身の女性だった。
彼女は皺の多い手に、革のレシートホルダーを持っていた。
「本日はありがとうございますお客様。私、店長の藤田と申します。こちらお会計になります、本日の料金がサービス料込みで四千四百円ですね。」
なんだかよく分からないままに提橋は再びの財布を取り出した。結局、先の一万はなんだったのか、騙されているのか、しかし、それを尋ねる勇気もない。
「良い子でしょう? ちかほ」
領収書をさらさらと書きながら、藤田が言った。その声には母親を思わせる様な色があった。
「はい、とても」
「きつい顔してますし、めんどくさいところありますけど、基本的に真面目なんですよ。……じゃあ、彼女は駅前の喫煙所です。是非良くしてやってくださいね。」
「ええと……はい、」
「また、遊びにいらしてくださいね。」
藤田に促されて、提橋は『ウィステリア』を出た。
喫煙所は、仕事の帰りなのか疲れた顔の男女がいっぱいに溜まっていた。
山里はその一角で、周囲に睨みを効かせながらタバコを吸っていた。今日の私服は先日よりはずっとシンプルだ。太めのブラックのデニムパンツに、グレーのスウェット姿である。胸元には、提橋にはよく分からない猟奇的なプリントがされていた。
「タバコ、吸うんだね」
「あ、お疲れさまでした。吸いますよ。和巳さんもさっき吸ってましたよねハイライト」
提橋には、山里が少しだけ表情をやわらげたように見えた。しかし、薄暗い中では気のせいとも思えた。
「山、……ちかほさんは何吸うの?」
「マルメンです。8ミリの。名前多くて困らせましたね。美愛って呼んでください。美しい愛で美愛」
「ああ、昨日の確認書に書いていた名前か」
「私、バンドやってて、ステージでの名前なんです。山咲美愛。嫌いなんですよね、芳子って古臭くて。これもじいさんが付けたらしいです。」
「美愛さん、ね」
「美愛でも美愛ちゃんでも何でもいいですよ」
「それはちょっと私がまだ恥ずかしいから……」
山里──山咲はアハハと声に出して笑った。
「そんなに笑う所かな?」
「いや、だって、和巳さんって真面目で普通の人じゃないですか? ちょっと挙動不審だけど。そんな人が今探偵やってるんだって思って」
「探偵なんかじゃないよ、いいとこ興信所だ」
「興信所って何?」
「興信所ってのは、まあ、探偵みたいなものだけど……」
尻すぼみになった提橋の発言に、思いのほか山咲が食いついた。
「え、探偵って種類とかあるんだ。知らない。なんか、和巳さんって頭よさそうですよね」
「それが営業トークかい?」
「違う違う、」そう言ってまた、山咲はアハハと高く笑った。
山咲は体をくの字に曲げてからころと楽しそうに笑う。笑われている側の提橋にも悪い気はしなかった。
「そうだ。言っておきますけど。私の本業はミュージシャンだから。バンドが私の中心で昼間は服屋に立ってる。今は、バンドでどうしてもやりたい企画ライブがあって、その経費のために藤田さんに頼み込んでアルバイト中だったってだけ」
「確認書に書いてたもんね。ミュージシャンって」
山咲は少しだけ気まずそうな顔をして、売れないけどねと呟いた。
「……それで、何だったの? さっきの一万円とかなんとかってのは」
提橋が尋ねた。山咲は、彼のその顔を見て、もう一度軽い発作のように笑ってから答えた。
「ごめんごめん、さっきは詳しく言えなかったから。店長に──会ったでしょう? 店長の藤田さん、あの人にお客さんがアフターに誘ってるって言って。お客さんから直接のチップだって二万渡して早上がりさせてもらったの」
「ちょっと待って、二万ってのはどこから出てきたんだい? あと、それはお店のシステムなのかな?」
「二万は和巳さんの一万と私の一万。お店のシステムじゃないよ。私あの店長いし、藤田さんにお願いした感じ」
「美愛さんも一万円払ってるの? それは申し訳ないな」
「違うよ、都合よかったの。昨日臨時収入も入ってたし。……さっき二人組のお客さんいたでしょ? あの人たち常連さんなんだけど、私苦手で。前に軽く口論みたいになったこともあって、帰りたかったから。それに、お店的にも今日は私の事店の中に置いておきたくなかったんだと思う。……藤田さんは、今日喧嘩してくれたらあの客出禁にできるのにって言ってたけどね。」
「私みたいなのでも上手く相手にする君にも、苦手な客とかあるんだね。」
「和巳さんなんかは全然話しやすい方ですよ。──遊び慣れてないし、真面目だからグイグイ来ないし、あと私が喋ってるだけでなんか嬉しそうにするし」
一瞬褒められたかと思った所に、冷や水を浴びせられたようだった。顔が熱くなるのが分かった。
「褒めてる褒めてる。まあ、持ってきた内容はめんどくさいけどね。それもあったよ。ちょっとお店で喋るには……冷める話だから」
「そうだ。どうする? 私はこの辺りに詳しくないけど、どこかいいお店はあるかな?」
提橋が時計を見ると、まだ二〇時過ぎだった。
「散々お金使わせたし、和巳さんの家でもいいですよ? 私、絶対なにもしませんけど」
山咲はまるでカラオケか居酒屋でも提案する調子で言った。
「いや、私からも一応安全とは言うが、流石にダメだろうそれは」
「んー、じゃあ、こっち。」
彼女が歩くと、ごみごみした喫煙所に道が開かれるようだった。
十三
「──私は、あのじいさんに母親を奪われた。」
駅前から徒歩三分にある練習スタジオ、その三畳の一室で壁にもたれながら、山咲は淡々と語り始めた。
——山里家は、三重県の山中にある矢末村に広大な屋敷を構えていた。大人の事情は分からない年頃の美愛にも、その力のただ事でないことだけは分かったそうだ。
当主であった祖父、山里重清は、旧態的な家の男を体現したような人間だった。常に不機嫌そうな顔をして、家の中では自分の都合以外で一切腰を上げず、日が傾けば酒を飲み、そして管を巻いて、時に手もあげると。自身の書斎を城と定め、昼間はそこに籠りっきりで何か作業をし、要求があれば家中に響く声で怒鳴った。
その妻で、美愛にとっては祖母にあたる山里多江は重清に奉仕することを人生と定めたような女だった。そこには喜びや苦しみは伺えず、ただ斯くあるべしという縛りだけで成っているような女性であった。家庭に於ける重清の独裁は、むしろ多江と言う女性によって強化される構造があった。
美愛は、まだ物心もつくかつかぬかと言う年頃に、父親である山里清隆と共に東京へと越してきた。今の埼玉の自宅は父の仕事の都合で高校生になる頃に移ったものだと言う。しかし何故か、三重からの上京にあたって美愛の母である山里尚子の同行は許されなかった。
娘が遠方に移ることに反対する父、と言うだけならまだ聞いたことのある話だが、あろうことか、娘婿の清隆と美愛の引越しは、そもそもとして重清が命じたものだった。
ただし、これは美愛の推測である。彼女の身に実際に起きたこととしては、東京での父娘二人暮らしがまずあった。母と死別している訳でもなく、どうやら両親は離婚すらしていないような状況のなかでの二人暮らしであった。
美愛と清隆が出て行った頃、矢末の山里家には六人の人間が暮らしていた。即ち、山郷重清、その妻多江、娘にあたる尚子、そして尚子の妹家族である。美愛からすれば叔母にあたる尚子の妹は、名を茅子と言った。茅子は嫁入りをし、娘をもうけている。この三人家族は、重清の命で、今度は山里家に住むことを強制されていた。この中松家の娘は、美愛より二つ歳が上だった。美愛はこの従姉妹によく懐いていた。
そんな矢末の山里家へ、美愛は冠婚葬祭や村の祭りの度に呼び戻された。それも、彼女一人で、である。小学生の頃には、矢末村のある山の入り口まで父が送ってゆき、そこに車の迎えがくるという念の入れようであった。中学以降の美愛は一人で新幹線に乗って三重まで年に二度か三度ほどの頻度で通った。高校生になった頃には、三重行きにも家族のあり方にも強く反抗したが、共に暮らす父は、決まって地面に頭をつけながら、「お前の母さんの為に行ってやってくれ」と言った。矢末の山里家で母に泣きつけば、「お爺ちゃんがね、いろって言うから。ごめんね」と繰り返し頭を撫でられた。
美愛が高校を中退したのが十七歳になった頃。そして、それから一年後、美愛が十八歳になる年に重清はついに亡くなった。しかし、重清が死のうとも美愛の環境は変わらなかった。
重清の火葬の日、母はそこにいなかった。多江に聞けば「尚子は今病気だから」とそれだけだった。どれだけ質問を投げても多江の返答は変わらず、最後まで母は姿を現さなかった。
祖父の葬儀に伴う矢末行の帰り、祖母から渡されたのがあの“本だった。「これがなくなると尚子が困るからね」と凄んだ多江の目には強迫的な色があった。祖母多江と、母尚子は美愛とは遠く離れた地で同居しているのである。彼女は病に伏せているという母を人質に取られた気分だった。
それから、七年の月日が経った。その間、埼玉で忙しく二〇代を送っていた美愛は家族とも矢末とも以前ほどの交渉を持たなくなっていた。彼女が音楽にのめり込んだのも、藤田と「ウィステリア」に出会ったのも、昼間の仕事にアパレル店員を始めたのも全てこの間の出来事だった。
美愛、二十四歳の事である。矢末から訃報が届いた。それは、母尚子のものだった。母は病に臥せって最後を過ごしたらしい。しかし、それを美愛が知ったのは母の訃報と同時だった。尚子自身が黙っているように頼んできた、と祖母多江は言ったが、美愛には到底信じられなかった。頑なに矢末の地へと帰らない父を説得する気力も尽き、美愛は一人で母の葬儀へ向かった。
急ぎ向かった美愛に、祖母が見せたのは仏壇であった。待っていた母は、既に仏壇に載せられた骨壷の中だった。
祖母は、山里家は、娘である美愛の帰りを待たずして尚子を荼毘に付していた。美愛は確かに聞いたはずの葬儀の日程に間に合わせてきたはずであったが、何度聞いても祖母は惚けるばかりであった。
彼女が萎えた体を引きずって埼玉に帰った日から大凡一年後、その祖母多江も亡くなった。
そして何故か清隆は祖母の葬儀には一人で出向いていった。
それからまた少しの時が経った。ふつふつと怒りを抱えていた美愛は、掃除の合間にふと、押入れの奥底に仕舞い込んでいだ本を発見した。
そうして、美愛の長い長い独白は、昨日の『リサイクルショップしかぞの』での出来事へ繋がった。——
全てを聞き終えた提橋は反応に窮した。一時、彼の頭から推理は抜け落ちていた。
「ありがとう。……どうして、美愛さんは私相手にそこまで話してくれたのかな?」
「え、だって知りたかったんでしょ?」
山咲は一瞬睨むような目をした。
「ああ、うん。聞けて良かった。本当にそう思うけど、話しづらい……話だったんじゃないかなって」
「いや、別に。面白い話じゃないから、誰にでも話すわけじゃないけど。聞かせてって言われたら喋る」言いながら、視線を落とした美愛の顔にかかった影を見て、提橋の何かが反射のようにして言葉を吐いていた。「——それが、全部?」
「……、私は納得してないから。」
「納得?」
「私がお母さんと暮らせなかった事も、最後に会えなかった事も、 葬儀に立ち会えなかったことも、情けないお父さんも、気持ち悪いじいさんもばあさんも、全部全部納得してないから。
——コウシンジョ、だっけ? 探偵役なんでしょ、和巳さんが解決してよ」
荷が重い、それが提橋の最初の感想である。
しかし、彼は美愛の境遇に同情を寄せていた。それに加えて、やはり矢末とヤスエの符号は見落とせない気がした。どこか遠くから鹿園が睨んでいるような気もするが、提橋が掴んだ点を関係させて描くことの出来そうな絵は、どうしたってオカルティックだ。
何よりも、探偵としての提橋の今日一番の働きは偶然にも山咲美愛と出会った事に思えた。無能なりに、天啓を頼るのも悪くなかろう。彼はそう結論づけた。
「美愛さん、お願いがあるんだ……けど、私と一緒に……、矢末の村に行ってほしい。やっぱり私には、原田の失踪と君のお爺さんの書いた本とが無関係とは思えない。向こうを、案内してほしいんだ。——一緒に、解決しよう」
提橋はひとつ一つゆっくりと言葉を選びながら頼み込んだ。頭は下げなかった。代わりに、想いを込めた視線をまっすぐに彼女に向けた。
山咲はゆっくりとひとつため息を吐いてから、口を開いた。
「いや、無理でしょ」
「え、無理?」
「だって、私明日からも服屋とウィステリアの出勤あるし」
「それが理由?」
「言いませんでした? お金稼がないと、企画ライブ出来なくなっちゃう」
山咲の返答は単純だった。熱に浮かされていた提橋も一気に冷静になった。冷静になると、今掴み損ねかけているこの糸が消えた場合の未来が走馬灯のように過った。
「待ってくれ、じゃあ、逆に言えば、お金が稼げれば手伝ってくれるってことかい?」
「まあ、無理じゃないかもですけど……昼間と夜で働いて、日給が今二万円くらいですよ私。それよりは稼げなきゃ」
「じゃあ、明日から三日間くれ、三日間で十、いや十五万円出そう」
「明日から三日って言うと、金曜日までですか。十五……十五かあ……、うーん、今何時ですか?」
「今は……夜九時だね。」
「ギリギリだな、ちょっと待ってください。電話します」
そう言うと、山咲は手早く電話をかけた。どうやら電話の相手は昼の仕事先らしい。頭をぺこぺこと下げながら話す様子に、提橋は山咲の新たな一面を見た気がした。
電話の中の山咲は、祖母が亡くなったという設定のようだった。提橋はこっそりと笑いを堪えた。随分と古典的な手法だなと思うとともに、実際に亡くなったばかりの祖母を不謹慎にも利用する山咲が妙に面白かった。
山咲は続け様に藤田にも電話をかけていた。こちらは先ほどより短く終わった。
「じゃあ、一応は準備出来ました。バイト代は前払いでいただきますよ。あと旅費は和巳さん負担でいいんですね?」
「もちろん。じゃあ、今から下ろしに行こう。」
「案外儲かるんですね。リサイクルショップって」
「まあ、私普段あんまりお金使わないからね」
提橋は咄嗟に嘘をついた。原田の金を使っていると言うことはなんとなく言い難かった。そんな彼を他所に、山咲は手早くスマートフォンを叩いていた。
「……じゃあ、そのまま行きましょう。」
「そのまま?」
「はい。今から東京駅に向かえば二二時前には着きます。今見たら、二三時東京駅発で多気町行きのバスが空いてます。多気からだったら、矢末までは一時間くらいですよ。時間もお金も節約していきましょう。」
「荷物とかはどうする?」
「どっちでもいいですよ? 着替えくらいなら向こうで調達しても良いですし、一時間以内に来間駅まで帰ってこられれば、取ってきてもらっても。」
「美愛さんは?」
「私はいいです。今日の服だったら汚れても良いし。」
「じゃあ、行こうか……このまま」
提橋が無職になるまで残り二日間。助手を伴った探偵旅行が始まろうとしていた。
中篇ノ壱へ続く
2024/11/25 19:00 公開
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