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『結ぶ——夢中文字の怪』 前篇ノ壱

久保田ひかる

 線は線だ。
 点は点だ。
 線には線以上の意味はなく、点には点以上の意味はない。
 線と線が、或いは点が関係し合った時、そこにはかたちが生れる。
 象と世界が、象と言葉が関係した時、それは文字と呼ばれる。
 言葉は社会と関係し、社会は俺と関係している。

 そして今、目の前の文字と俺は関係している。

 白く太い線は華美な装飾を施されている。角は力強く張り、いくつかの白塗りや黒抜きの丸や三角が関係し合っている。
 あまり、文字らしく見えない。俺の中の社会がそう言っている。

——だが、これは文字なのだ。文字でしかない。世界と社会と俺と言葉を繋ぐ関係の交差点。

 文字の背後で、真白い蛹が絡み合って蠕動ぜんどうした。
 羽化まではもうじきだ。ぬらぬらと汚らしく青ざめた肉の内側で、新しい世界が蠢いている。
 世界は幾重も生まれ直す。
 あの世界とも、俺は関係するのだろうか。

 あの文字は、俺と何を関係させているのだろうか。世界と、社会と、それから言葉。——

「◾️◾️◾️◾️」

前篇ノ壱

 友人とは、案外自己都合なものだ。
 提橋さげはし和巳かずみはあまり友人の多い方ではない。
 昔はそれなりにいた。しかし、歳を食うごとに減っていった。友人と呼べる人間も減った上に、定期的に会って喋って何かするような相手はもう片手ほども残っていない。
 定期的に、と言っても数年に一度、なんて事もざらだ。
 そんな彼が、割りに頻繁に会うのが原田はらだ由貴ゆうきである。
 お互い三十を少し過ぎても独身同士、というのは大きな要因だろう。仕事の休みが重なりやすい、これも大きい。
 だとすれば、友人とは相手との人間的相性よりも、お互いの都合の重なり合う部分がどれだけ大きいかが重要なのだろうか。いや、それをして相性と呼ぶのだろうか? 
 つまらない考えが提橋の頭を流れていく。
 考えたところでやはり、休日の喫茶店で向かい合う彼と原田の関係は、傍目に友人なのだ。

 向かい合って迎えていた沈黙に、なあと原田が切り出した。
「ちょっと世界で一番つまらない話をしたいんだが、いいか」
「そんな切り出し方で話を始めるやつがあるか」
「言い回しだろ、言い回し。……夢の話を聞いて欲しいんだ。」
 ああ、と提橋は納得した。確かに、夢の話と武勇伝はつまらないと相場が決まっている。
「いいよ。どんな面白い夢の話?」
「面白い、というよりは恐ろしい、というかさ。」
 提橋はそう言った原田の顔を見て、その目元にくっきりと隈があることに気がついた。もう喫茶店に着いてから一時間ほども経つ。その間提橋は、一度もまともに彼の顔を見ていなかったらしい。

「このところ、毎晩のように同じ夢を見るんだ。」
「毎晩っていつから」
「初めて見たのが初夢だったから、もう一〇か月近くになる」
 原田は何か逡巡するように沈黙した。
「……勿体ぶらずに内容を話せよ」
 提橋が言うと、原田はタバコを一本引き抜いた。彼は緩慢な動作で店のロゴ入りマッチを擦って火をつける。宙を見ながらゆったりと煙を呑んでから、
——文字がさ、と溢した。

「文字?」
「そう、文字なんだよ。いや、それが文字かも分からないんだけど。……夢の中ってさ、なんだかよく分からないんだけど、分かってるってことあるじゃん。」
「ああ、あるよ。夢の中で完全に彼女だと思っていた相手が、起きて思い出すと知らない女だったみたいな。」
 提橋の返答に、原田は愛想笑いをした。
「それで、文字が何だって?」
「文字が浮いてるんだよ。……夢は常に暗い部屋の中なんだ。焦茶に煤けたって言うのかな。古臭い木の壁に覆われた箱みたいな部屋に俺が立っててさ。部屋の真ん中で、文字が浮いてるんだ。」
「どんな文字だよ。」提橋も自分のタバコを引き抜いて、ジッポーライターで火をつけた。沈黙にオイルの香りが揺れた。
 原田はまだ長いタバコをもみ消すと、足を組み、膝を抱えるようにした。
「それが、分からなくてさ。」
「分からないってなんだよ。ああ、キリル文字とか、ヒンディー語の文字とか、そんなのか?」
「いや、まあ、日本語じゃないってのは正しいんだけど」そう言って原田は膝を離し、落ち着きなく新たなタバコに火をつける。「知らない文字なんだよ」
「知らないのに文字だって分かるのか。」
「分かる、んだよ。俺もちょっと調べてさ、世界中の色んな文字をとりあえず見てみたわけだ。でも、同じような文字は見つからなかった。多分、俺の夢の中にしかない文字で、言葉なんだ。……夢の中の俺はその文字を知っているし、読めるんだよ。」
 言った原田の顔は切実だった。だから提橋には、夢なんてそんなものじゃないか? とは言えなかった。
「どんな言葉なんだ? こう、意味とか、発音とか」
 原田はまた暫しの沈黙を置いた。煙が目に染みたのか、空いた方の手で目を擦っている。
「それが、分からないんだ」

「……よし、分かった。聞いてやる。聞いてやるから夢の内容を一通り話してくれ。確かに、お前の夢の話は面白い。私の負けで構わない。」
 提橋は両手をあげて大仰におどけて見せた。深刻な空気は、苦手だ。
「まあ、話すつもりだったからさ。話すよ。……夢だから、始まりは多分、ない。気がついたら俺はその部屋にいる。四角い箱みたいな部屋で、薄暗くて、青っぽい光がぼんやり部屋を照らしてて、それで、部屋の真ん中に文字が浮いてる。これが、なんだか見たことのない形をしていて、でも俺にはそれが文字だと分かるし、読めるんだ。それで、その文字を読もうとすると、いや、読み上げたのかな? 分からないんだけど、そうすると目が覚める。で、起きるとその読み方も意味も忘れてる。だけど、漠然と文字は覚えてて、それがずっと頭の中に貼り付いてるんだ。今もお前の顔に重なったように見えるよ。」
 原田は吐き出すようにそう言うと、顔は伏せたままに目線だけこちらへ向けた。
「それで全部か?」
「……それから——さなぎ
「蛹?」
「その蛹とさ。……俺は、」

 カラカラとドアベルが鳴った。
 主婦らしき集団がガヤガヤと四名で入ってくる。途端に、提橋と原田で張り詰めた店内は壊される。殆ど置物に等しかった老齢の店主の存在までもが浮き上がってきた。

「よく分からないが、原田お前隈が酷いぞ? 夢でもなんでも、一回精神科か睡眠の医者にでも行ってきたらどうだ?」
 提橋が短くなったタバコを揉み消した。コーヒーを飲もうとしたが生憎、彼のカップの中は空に近かった。タイミングが悪く、店主は先ほどの客の相手をしている。仕方なしに水のグラスを取った。
「そうだな。なんか、そういうのとはまた違う気がするんだよ。」
 原田は一度言葉を切り、コーヒーお代わり飲むだろ? と尋ねた。提橋が曖昧に頷くと、忙しそうな店主に向けて、手が空いたらこっちも! と声を飛ばす。提橋の背後から店主の明るい返事が聞こえてきた。
「覚えてるか分からないけど、俺の母親は統合失調だったからさ。まあ、それが遺伝してる可能性は十分あるとは思うよ。ただ結局さ、母親を見てたから分かるんだよ。認識がぶっ壊れてる時に、病気かもって思うのって結構難しいんだよな。でも、俺は今病院に行くべきかもとも思ってる。お前に行けって言われてもヒステリックにブチギレたりしない」
「でも、お前別に病院行かないだろ?」
 まあな、と原田はため息をついた。
「だから、これが病気だったとして、病識を持つのは難しいって話でもあるんだけど、なんか違う気がするんだよなあ。」
 しばらくの沈黙ののち、再び原田が口を開いた。
「なあ、夢太郎って覚えてるか? ほら、ラジオの」
 懐かしい記憶が蘇ってくる。まだ提橋も原田も大学生だった頃の話だ。当時熱中していたラジオの企画のタイトルが“夢太郎”。リスナーは皆んなで、とある架空のキャラクターを強く念じながら眠りにつく。夢にそのキャラクターが登場したら、その夢の内容を葉書に書いて投稿するのだ。
「ああ、お前すごかったよな。私なんか結局一回も夢太郎に会えなかったけど、お前には殆ど毎日のように夢太郎出てきてたよな。」
「多分だけど、俺は人よりも意識と夢が近いんだと思うんだよなあ。いや、なんて言えばいいのかな。」
「まあ、なんとなく分かるよ。それが例の文字の夢の原因だと?」
「よく分からないけどね。なんか繋がっているような気もするって程度」
 店主がコーヒーカップを二つ運んできた。原田は提橋に、お前要る? と聞いてからミルクの入った小瓶を断った。
「まあ、何にせよ、だ。夢は夢だろう? 夢のせいで現実の体まで壊しちゃ馬鹿だよ。考え過ぎないことが大事だろうな。」
「なんだよ。お前だったら面白がってくれるかと思ったのに。……小説家、まだ目指してるんだろ? 最近はどうよ。」
 今度は提橋がタバコを引っ掴んだ。緩慢に一本引き抜いて、火をつけるでもなくフィルターを軽く噛んで弄ぶ。まあな、と歯の間からこぼすように言って、それからやっとライターを擦った。
「なんだよ。例のリサイクルショップで小さく死んでいく気か?」
 提橋は深く深く煙を吸い込んだ。

 六十三円と八十四円がセットになった切手シート。デザインからしてお年玉年賀葉書の景品だ。二〇一九年から二〇二四年までのものが複数枚ずつ混ざって全部で二四枚ある。切手のようなものはうちのメイン商品ではない。その上、つい先日、数年ぶりに郵便料金の改訂が発表されている。つまり、この切手はもうじきに一枚で使うことが出来なくなる。
 まあ、そんなタイミングだから持ち込まれたのだろう。おそらく、大した買取値はつかないだろうが、店長は買取価格の改訂をきちんと済ませたのだろうか——
 提橋は、目の前の痩せた女性をチラリと見る。ほっそりと痩せた——というより窶れた顔に細かな皺が多い。およそ五〇前後に見える。脂っ気のない髪と、品のいいデザインだが毛玉の目立つ服。「捨てるくらいなら」と商品を持ち込んでくれるお客さんに多いタイプだ。客の指の忙しない動きがなんだか可哀想に見えた彼は、精一杯明るい笑顔を作った。
「では、切手シート二四枚ですね。金額確認して参りますので少々お待ちください。」

 レジ奥に備えられた襖を引き開ける。
 途端に、中東の古書店とでも形容したいような独特の香りが鼻を刺した。壁一面に備えられた本棚には国籍もジャンルも雑多な古書がずらりと並んでいる。
 高値で買い取られた、世間的には無価値な本。
 本棚の前に並べられたのは、こちらも多国籍な楽器や民芸品たち。
 妙に縦に長い褐色の面。
 不自然に湾曲した角笛。
 他で見たことのない毒々しい花をつけた鉢植え。
 巨大なナナフシの標本。
 SONYのロゴが入った見たこともない筐体。
 挙げ連ねればキリがないほどの珍奇な品の中、この「リサイクルショップしかぞの」の店主、鹿園しかぞの雅美まさみは作務衣姿で寝転んでいた。手には何やら赤い布貼りの本を広げており、丁度提橋からはその顔色が伺えない。
 店主はこのバックルーム兼居住スペースを含んだ店舗を文化の最終漂流地と呼んでいた。

「店長、買取金額なんですけど」
 鹿園は姿勢を変えないまま、品は? と短く問うた。
「年賀物の切手シートです。額面は六三足す八四で一四七円ですね。二四枚持ち込みです。以前だと七五%買取でしたけど、今度郵便の価格改定もありますし、一応確認をと思って。」
 鹿園は短く「ん」と返事を寄越した。
 まあ、そうだろうなと提橋は納得する。
 この店主は一般的な金券類には一切興味がない。額面にして三,五〇〇円程度の切手など何だって構わないのだ。
「じゃあ、七〇%で買取にしちゃいますね。」
 鹿園はもう返事を寄越さなかった。

 再びレジへと戻る。
 提橋は微笑みを浮かべながら、お待たせいたしましたと電卓を拾い上げた。
「こちらの切手ですと、七〇%でのお買取ですね。切手二枚の合計が一四七円、かけることの〇.七致しまして、一枚あたり一〇二円。あ、端数は切り捨てです。更にかけることの二四枚で、二,四四八円ですね。どう致しますか?」
 ご婦人は羞じらうような笑みを浮かて切り出した。
「元々の額面だといくらでしたっけ?」
「ええと、六三足す八四で一四七円、かけることの二四枚で三,五二八円ですね。大凡一,一〇〇くらいの差額になります。」
「じゃあ、お願いします。」
 ご婦人の返答は早かった。差額を問われた時に買い取りは難しいかと感じたが、相手の腹はすでに決まっていたようだ。

 ご婦人が退店すると、店内は一気に静かになった。
 バックルームと違い、表のスペースはリサイクルショップの体を保っている。目の前のショーケースには金券類が並び、狭い店内にはブランドバックのコーナーやアクセサリーのコーナー、僅な古銭や、珍しい物ではレアポスターなんかが商品として並んでいる。
 そうは言っても、販売にかかることはそう多くない。平日なら一日の間に買い取りが一〇件、販売が五件もあれば十分に客が来た方だ。
 提橋が働き始めて一三年ほどになるが、この店が流行ったようなことは一度もなかった。

 『リサイクルショップしかぞの』は、埼玉県来間市のショッピングモール ハナフジの広大な駐車場の一角に店舗を構えている。赤茶のレンガ風の外壁に、黄金に輝く瓦風の屋根を乗せた悪趣味な店だ。大棟には二匹、黄金色の麒麟が載せられ、来店する客を出迎える。或いは威嚇するとも言える。
 店がオープンしたのは十三年ほど前の事である。今ハナフジが建っている土地は、元は全て鹿園家の当主たる独り身の鹿園雅美のものであった。それを売却する条件の一つとして、敷地の一角にこの店が建てられた。
 当時の提橋は大学の二回生である。大学生としての生活にも慣れ、周囲より一足遅れてアルバイトを探していた。そんな所に求人を見かけ応募した。
 提橋はこのしかぞののオープニングスタッフという訳である。その当時にはスタッフが四名いてシフト制だった。彼も大学の予定と被らない程度に勤務に励んでいた。しかし、気がつけば一人また一人とバイトは減っていった。
 仕事が難しい訳ではない。
 偏に、この偏屈な店主のせいである。まず、どうやらこの店主は、店員はいなくても良いと考えている。どうせ大して客の来ない店であるし、店主はバッグルームに殆ど暮らしている。自宅は別にあるようだが、実際店の空いている時間はバッグルームに常駐している。読書の邪魔になるのは嫌らしく、接客に積極的ではないが何とかなるとは思っているらしい。
 そんな心持ちであるから、バイトに対する親切心のようなものはない。大抵の場合、「ん」とか「任せる」とかそんな事しか言わない。だから真面目なものほどこの店主を邪推する。自分は嫌われているのではないか、自分は邪魔者なのではないか、そう思わせるには十分な態度しか見せない。だから四人いたバイトは二年ほどの間に提橋一人になった。
 そんな時に、店長が突然提橋に大学卒業後の進路を聞いてきた。当時大学四回生をやりながらも、風呂敷の閉じない卒論と落とし続けた単位の再履修、再再履修に追われていた彼には勿論何も決まっていない。そこに蜘蛛の糸が垂れた。
「君さ。ウチに就職しないか。」

 一週間に五日の勤務。週二日の休暇は基本的に一月ごとに申請だが、曜日も変更も自由。十一時開店から二〇時閉店までの店番と在庫管理、モールとの連携と、光熱費やその他経費の支払いに、それらをまとめて鹿園へ提出。バイトに毛が生えた程度の仕事で、月給は当時で二四万プラス三万五千円だった。三万五千円は週一日程度バイトを雇ってもいいと渡されていた予算である。面倒だった提橋はバイトの分も働いてこの予算を懐に入れた。因みに二年ほど前、提橋が三〇歳になると月給は勝手に三〇万に上がっていた。店舗利益を計算している彼は、この給料と店舗のコストを合わせたら黒字は殆ど出ていないことが分かっている。鹿園にとって、店舗は道楽なのだ。
 周囲の同年代を見渡せば、提橋より稼いでいる人間は無数にいる。しかし同様に彼より稼いでいない人間も無数にいる。独り身の提橋には楽な仕事で生活が出来る『しかぞの』がしっくり来てしまった。それに何より、店番中でも空いた時間は好きに使って良いという点が、小説家志望の彼にはいたく魅力的だった。
 いつの間にか、三二歳、風変わりなリサイクルショップ店員の完成である。

 はあ、と大きく溜息をつく。
 先の切手持ち込みのご婦人が退店してから三時間ほど経過している。時刻は一七時。
 閑古鳥の鳴く店内で、提橋は原稿を進めていた。

——小説家、まだ目指してるんだろ? 最近はどうよ。——

 昨日の原田の言葉が棘となって彼を突き動かす、のだが。原稿は順調とは言い難かった。
 最後に文学賞に応募してから、もう三年が経つ。二〇代の最後に出した作品は最終選考まで残って——落選した。
 それ以来、執筆は惰性に惰性を重ねていた。何か書いてはいる。書いてはいるが、何一つとして納得のいくものなど書けてはいない。いや、納得以前だ。こう、魂の入ったような作品を全く書けていなかった。
 だからこそ、提橋は原田には訊かれたくなかった。小説なんて物は、努力すればいいものが書ける訳でもない。いや、努力が十分かと問われれば、確かに不十分かもしれない。だが、それがなんだと言うのか。自身は確かに最終選考に残った。間違った方向を向いている訳ではない。書きたいもの、好きなものを我慢してまで、ウケそうなもの、賞レース向けのものまで書いた。提橋は既に、プライドを脇に置いている。
——本当か? 
 いいや、本当だ。でなければ、もっと楽しんで書いているに決まってるじゃないか。確かに職業作家を目指して、自分でない読者のために書いている。でなければ、自身に縁遠い限りである恋愛を扱った小説など書くものか。順調ではないさ。こんなにも熱意なく小説を書いていた時期など二〇代の頃にはなかった。何も楽しくない。
 辞めればいいのに。
——辞めたら、何が残る。

 電気代の節約で常に薄暗い店内は、誰かが不要だと置いていったもので埋め尽くされている。
 売れるものはさっさと売れていく。残ったものは埃を被って余計に燻んでいく。
——そうだよ。私は多分このリサイクルショップで小さく死んでいくんだろう。

 息が、詰まる。

——ギイイ、と軋んだ音を立てて店のドアが開いた。
 細く橙の夕日が差し込んで、流れ込んだ新鮮な空気が提橋の鼻を撫でる。
 それは、ドアを重そうに押し開けて入ってきた。
「すいません、売りたいんですけど」

磁器ビスク人形ドール——。

 くっきりと黒い目元と唇。蝶の羽ばたくような印象を持たせる長い睫毛。落としたら欠けてしまいそうな、青いほど白い肌。樹脂のように艶やかな黒い髪は高い位置でツインテールに結い上げられている。
 黒を基調としたフリルの効いたワンピースを纏った女。彼女には、彩度がなかった。そして、その容貌の整い方には、どことなく人工物の香りがした。
 おそらく、街で見かけたら異物。
 しかし、磁器人形の如き女は、その美しさに反してこの売れ残りの群れにぴったりと嵌っていた。
「あの、本、売りたいんですけど」
 人形の目に訝しむような色が浮かんだ。ああ、と発した提橋の声が裏返った。
「この本、お金に換えて欲しいんですけど。……おじさん、大丈夫?」
 おじさん、という言葉で彼は我に返った。ぶわりと頭皮に汗が噴き出す。不審なものへ向けられた若い女性の目は、彼に状況を俯瞰させるには十分だった。
「いらっしゃいませ、ああ——失礼いたしました。——ほん、のお持ち込みですね?」
 ああ、間違えた、なんて事が提橋の頭を流れる。普段だったら、お買い取りをご希望ですか、と問いかけるところをお持ち込みなんて言葉が口をついている。焦っている——
「これ、ここなら買い取ってくれるって言われたんです。駅前にあるブックオフで」
 女は背中に背負っていたスタッツだらけの黒いリュックを重そうに床に落とすと、そこから一冊の本を取り出す。リュックを捨て置いたままに、重そうに本を抱え上げるとカウンターまで持ってきた。
 提橋はと言うと、羞恥心から手伝うことはおろかカウンターから出ることも出来ずに冷や汗をかいていた。

 カウンターにドスンと置かれた本は、美しい装丁をしていた。
 単行本なんかで見かけるサイズではない。A四のコピー用紙よりは、更に一回りほど大きいだろうか? 緑の布張りに、オレンジと金の糸で美しい刺繍が施してあった。複雑な幾何学模様の縁取りに、見たことのない文字でタイトルらしきものが並んでいる。
 何にせよ、持ち込まれたものが本である以上、査定をするべきは彼ではなかった。
「では、こちら買取金額を確認いたしますので少々お待ちください。」

 レジ奥の襖を引き開けると、先と全く同じ姿勢の店主がいた。間違え探しのように、手に持った本だけが違っている。
「店長、本の買取です。」
 鹿園は持っていた本をすっと下げた。
「どんな」
「それが、全く分かりません。」
「君、一応小説家志望だろう? 分からないとは頼りないな」
 ぼやきながらも、鹿園は立ち上がって、傍らの『しかぞの』ロゴ入りエプロンを締めた。客前に出る時には、最低限それ相応の格好をするというのが、どうやらこの男の決まりらしかった。
 提橋はひと足さきに件の女の前に戻る。
「今から店長の方で品物を拝見させていただきますので、少々お待ちください。こちらの本お預かりしますね」
 女は目線をショーケースに向けたまま短く、お願いしますと言った。
「いらっしゃいませ〜!」
 遅れて入ってきた鹿園は別人のように和かな笑みを浮かべて女を歓迎した。店主の前へと動かすため持ち上げた本は、提橋にも片手では不安なほどにずっしりと重かった。
 こちらです、と提橋が鹿園に本を渡す。本を一目見た鹿園は、目を活き活きとさせながら提橋に顎で女の方を示した。店主が何を指示しているかは、彼にはすぐに分かる。伊達に一三年部下をやっていない。

「こちらの本についていくつか伺ってもよろしいでしょうか?」メモの用意をしつつ、提橋は女に問うた。
「はい」
 短く答えた女の不安そうな目を見て、提橋は少し冷静さを取り戻した。
「そうだ。お客様、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「……美愛みあです。」彼女の返答には、少しの逡巡があったように見えた。
「美愛様ですね。まずは、こちらの本はお客様ご自身のものでしょうか? どちらからご購入や譲渡されたものかお伺いしても宜しいですか?」
 美愛と名乗った女は、はあ、と曖昧な返事をし、それからゆっくりと切り出した。
「……これは、うちのじいさんの遺品です。」
「それは、御愁傷様でございました。お悔やみ申しあげます。どうしても、こういった店ですからね。お客様のように遺品整理としてお持ち込みいただくことは多いんですよ。」
「死んだのは一〇年近く前です。」
 また間違えた、と提橋は反省した。微笑みと追悼の入り混じった接客用の笑顔も虚しく空ぶった。
「そうでしたか、勘違いを失礼いたしました」
 勘違いをしたのは事実である。事実であるが、いつ亡くなろうとお悔やみ申し上げて悪いことはない。さて、この場面で何を言うのが正解だったか、頭の中で反省会が深まる提橋に不審な目を向けながら美愛は言葉を継いだ。
「あの人——じいさんとはあんまり、交流はなかったんです。遠くで暮らしてたんで。三重の方の人で。」
 あら、と提橋は口を挟んだ。
「三重、どちらですか? 私も親戚が亀山におりますよ。」
「はあ、ヤマンです。」
「ヤマン、と言うとどんな字ですか?」
「矢印の矢に、末っ子の末で矢末やまんです。伊勢の方で、……それで七、八年前くらいにあの人が死んで、葬式行ったら、ばあさんにその本を押し付けられたんです。じいさんが大事にしてた形見だから、お前が持てって。」
「それを、買取に?」
「先日ばあさんが死んだんです。だから、もう良いかなって。あの人たち、嫌いなんですよね。私」
「それは……、御愁傷様でございました、お悔やみ申しあげます」
 提橋にはもう、自分の反応が合っているのか間違っているのかよく分からなくなっていた。
「その本のことはよく知らない、……知りません。なんか、重いし、臭いし、中もよく見てないんで。さっきブックオフに持っていったら、値段がつかないって言われて、でもここに持ってくれば高く買い取ってくれるって聞いたんで。重かったから嫌だったんですけど、まあお金は欲しいし」美愛は徐々に目線を下げながら、袖に埋もれた腕をぶんぶんと振って喋った。
 聞きながら、提橋はちらと鹿園を見た。提橋の視線に気がついた鹿園は、顎に当てていた手を下ろし、その手で提橋に退けと示した。
「お客様、私からも少しお尋ねしたいのですが、宜しいでしょうか?」鹿園の声は、提橋には向けられた事のない友好的な色をしていた。
「ああ、はい」
「見たところ、こちらの本の文字は非常に珍しいもののようで。お祖父様は何かの言語か、もしくはどこかの国の文化に詳しかったりはしませんでしたか?」
——珍しい文字、という部分が提橋の頭に引っかかった。
「すみません、よく分かりません。あの人とは、あまり話さなかったので」
 ふと、提橋は不思議に思った。この美愛にとっての祖父は、形見の品を積極的に手放したいほど嫌いな人物なのである。しかし、実際には交流が薄い人物でもある。こんな二重は——まあ、あるかと彼は納得した。
「そうですか、ありがとうございます。」鹿園はさっと電卓を拾い上げると、静かに叩いて美愛に差し出した。「こちらの本でしたら、当店での買取金額は七万円になります。」
「七万? この本が、」美愛が吹き出した。
「ええ、如何でしょう? お売りいただけますか?」
「あ、じゃあ、お願いします。……七万円、ですよね?」
「ええ、七万円です。この通り」鹿園は電卓を美愛へ押し出した。「じゃあ、提橋君、お買取させてもらって。終わったら本持ってきてね」
 鹿園は美愛に会釈すると、あとはこちらのスタッフがと提橋を指して裏へと帰っていった。
「では、こちらの本一点で七万円のお買取ですね。古物営業法という法律上の決まりで、お買取にはお客様の身分証が必要になりますが、本日何かお持ちでしょうか?」

——「古物営業法」
確認等及び申告
第十五条
古物商は、古物を買い受け、若しくは交換し、又は売却若しくは交換の委託を受けようとするときは、相手方の真偽を確認するため、次の各号のいずれかに掲げる措置をとらなければならない。

一 相手方の住所、氏名、職業及び年齢を確認すること。
二 相手方からその住所、氏名、職業及び年齢が記載された文書(その者の署名のあるものに限る。)の交付を受けること。
三 相手方からその住所、氏名、職業及び年齢の電磁的方法(電子的方法、磁気的方法その他の人の知覚によつて認識することができない方法をいう。以下同じ。)による記録であつて、これらの情報についてその者による電子署名(電子署名及び認証業務に関する法律(平成十二年法律第百二号)第二条第一項に規定する電子署名をいい、当該電子署名について同法第四条第一項又は第十五条第一項の認定を受けた者により同法第二条第二項に規定する証明がされるものに限る。)が行われているものの提供を受けること。
四 前三号に掲げるもののほか、これらに準ずる措置として国家公安委員会規則で定めるもの——

 美愛は、マイナンバーカードを提示して簡単な書類に記入した。背が低い彼女には、カウンターでは位置がやや高いらしく、書類の乗ったプレートを抱え込んで書いていた。
「書けました。」
 提橋は、彼女から受け取った書類とマイナンバーカードの表面コピーとを照らし合わせ、——あえ、と変な声を出した。
「こちら……、お名前が違ってますね」
 美愛の書いた書類には、『山咲やまさき美愛みあ』と記名があるが、マイナンバーカードには『山里やまさと芳子よしこ』とあった。住所、生年月日及び年齢は合致しているし、写真は目の前の女のそれである。職業には、『ミュージシャン』と書かれていた。
「ああ。名前、本名じゃなきゃダメですかやっぱり」美愛と名乗っていた女は、書類を取ると氏名に二重線を引いて乱雑な字で本名を書き直した。
「ああ、はい。これで大丈夫です。それでは……、七万円のお代になります。」——

 美愛或いは芳子の帰った店内で、提橋は一人、奇声を上げたいような気持ちでいた。地に足のつかないような意志の宙ぶらりんがあった。それが、若く美しい女を見たせいなのか、一筋縄で行かない親族関係を覗き見したせいなのか、不審な振る舞いの客を無事やり過ごした達成感からなのか、提橋には判断がつかなかった。
 目の前には、彼女が売り払った本。表紙には見知らぬ文字が刺繍されている。金糸で刺繍された太い線は華美な装飾を施され、角は力強く張り、いくつかの塗りや抜きの丸や三角が複雑に配置されている。
——確かに、芳子ではないな。
 最後に抱いたのは、そんなぼんやりした感想だった。

 十月の夜は寒い。二〇時ともなれば、肌感覚としては冬である。
 提橋が『リサイクルショップしかぞの』を一歩出ると、霧のように降りかかる雨が彼のメガネを点々と曇らせた。まだ薄手の上着をぎゅっと引き寄せ、提橋は駆け出した。 
 店の外周に沿って反時計周りにぐるりと周る。そこには、トタン屋根の下で灰皿が立っていた。
 閉店時間を迎えたら、締め作業の合間に一度タバコを吸いに出るのが昔からの彼の習慣である。咥えたタバコに火をつけて、ポケットから取り出したスマートフォンを確認すると、原田からメッセージが入っていた。
[昨日は悪かったよ]
 返信を打とうとしたが、スマートフォンの表面は雨で濡れていた。キーボード入力愛好家の提橋には、ちょっとした画面濡れも大きなストレスになる。
 原田なら、いいか。提橋は通話のボタンを押した。原田は三コールで出た。
「どうしたよ。変なライン入ってたけど」
「なんだよ。急に電話かけてくるなよ。風呂入ってたわ俺」
 原田の声は案外明るく聞こえた。
「でも出たじゃん。急に謝られたって、身に覚えがありすぎてどれだか分からない」
「まあ、なんて言うか、全部だよ。やっぱりちょっと精神的に参ってるみたいだ、俺は。お前に言われた通り病院行った方がいいかなって思ったよ。」
「そうかそうか、それは……いい事だ。——ほら、医者が違うと言えば違うわけだ。そうしたらまた、お前の自説は強化されると。」
 そんな事は、あり得ない。アレだけ酷い隈をつけて、実際に睡眠障害まで出ている。現実と夢の境まで揺らいでいるようだし、医学に判断基準を委ねれば何がしかの解釈がつく。その際に捨象されるのは、きっと今の原田にとっては手放し難い不可思議な認識世界なのだろう。しかし、“そういうもの”の関係の積み重ねが社会である。
 提橋は、いつの間にか原田に肩入れしたくなっているらしい自身に気が付いた。
 そして、ほんの三時間ほど前の出来事と、電話越しの原田との関係を、提橋は思い出した。

 そういえば原田お前に、と提橋はそこまで言ってから続きを躊躇した。医者に行けと言ったのは誰だ。これでは文脈が——破綻している。
 しかし、原田の追求は執拗であった。提橋が隠そうとすればするほどに原田は面白がって深掘りする。昔からそうだった。結果的に提橋が“本‘の話を漏らしてしまった一端には、やはり彼もこれを面白がっていたせいもあったのだろう。

「——今日、変な本が持ち込まれたんだよ。その本の文字がさ、知らない文字だったんで、ちょっとな。まあ、私に読めなかっただけだよ。」
 提橋の判断だけでなく、国を問わずして奇書に詳しい店長の判断でもあるが、それは黙っておくことにした。
 なあ、と切り出した原田の声が先までと違った。
「それどんな文字だった?」
「別にお前の夢とは関係ないだろうよ。」
 原田の認識を歪ませる事を恐れた提橋は、まず先に彼が見た夢の文字について問いかけてみた。原田はするすると答える。
「俺の見た文字はさ、なんか、飾り文字っぽいんだよな。元の文字が分からないわけだが、やたら豪華なんだ。角なんかも、くっきりしてて、……あと、他の文字と違うって考えた特徴としては、やたらと丸とか三角に見える部分が多い。この間書いてみせれば良かったな。文字書いて送ろうか?」
「——そんな訳があるか」提橋は冷めた笑いを漏らした。
「どういうことだよ」
 いや、とそこまで言って提橋は黙り込んでしまった。

——まるで同じものを見たようじゃないか、

「なあ、提橋、お前がなに考えてるかは分からないけどさ。頼むよ。——俺に、その本見せてくれないか?」
「……病院行くって約束するか?」
「するよ。絶対行く」
「……分かったよ。」
 提橋が原田の要求を呑んだ理由の一つには、まだ脳味噌の皺に染みついた昨日の原田のセリフがあった。

 会合は、一時間後に決まった。原田と提橋は共に来間市内に住んでいる。
 提橋は大急ぎで閉店作業を行うと、まだバックルームにいた鹿園に本の貸し出しを願い出た。
 店主は、非常に嫌そうな顔をし、傍に積んだ本に目をやった。
「提橋君、明日は休みだっけ?」
「そうですね。次の出勤は明後日です。」
「僕はこの本を明日の夕方には読み始めたいから、明日のお昼までに返すならいいよ。」
「では、明日の午前中には店に持ってきます。」
 鹿園は最後まで、ううんと唸っていたが、渋々貸出を了承した。
 提橋は、何度も頭を下げながら読めない本を借りた。

 霧雨の降るなか、提橋の乗った中古の軽自動車は原田の家へと走り出した。 

「おう、ありがとな」
 原田はそう言って出迎えた。
「感謝してくれよ。店長から借りるの大変だったんだ。あの人、この本に七万つけてるんだから」提橋は本の入った手提げを掲げて見せた。原田の顔色は昨日より幾分良いようだ。
「無理に頼んで悪かったと思ってるよ。まあ、上がってくれ」

 原田のアパートは古臭いが二LDKの広さがあった。趣味の多いこの男は、一部屋を物置がわりに埋めてしまっている。そのせいもあって、原田は大学を出た直後からずっと変わらず、もう一〇年はこのアパートに住み続けていた。
 提橋は、原田の居間としてのリビングルームに通された。
「なんだ。随分散らかってるな。こっちまで物置にする気か?」床には、様々な書類が散らばっている。フロイト、超心理学、サバイバル、アルテミドロス、安倍晴明、オッペンハイムにユング。提橋には知らない単語も散見されたが、それでも何を調べているかくらいは十分に汲み取れた。
「ビールでいいか? 泊まってくだろ?」キッチンへと立っていた原田から声が飛んできた。
「帰るつもりだったけど、まあ泊まってもいい。」
 折角なんだからゆっくり読ませろよ、と言いながら原田は両手にビールの缶を持ってきた。
「よし、乾杯だ乾杯。」
「お前こそ、明日仕事は?」
「なんとでもなるさ。明日は別に重要な予定はないしな」
 ビールはよく冷えていた。

「よし、じゃあ見せてくれよ。」
 原田は視線を落としていた。その表情は提橋には読み取れなかった。



 「サバイバル現象」とは死後生存を裏付ける、所謂生まれ変わりなどと言った現象を研究する領域。日本においては、小谷田勝五郎などの例が記録として有名である。ただし、スーパーサイコロジーでは、「サバイバル」の解釈にスーパーPSIを当て嵌めることもあり、「霊魂」と呼ばれるものと直結するものではないことに注意されたい。——原田が本を熱心に見ている間、持て余した提橋は床に散らばっていた論文のコピーを眺めていた。著者には石神康夫とあった。
 サバイバル、と聞けば無人島で生き抜くようなイメージしかない提橋には、生まれ変わり現象という意味を持つというのは馴染みのない考えであった。更に読み進めていくと、真性異言しんせいいげん=ゼノグロッシーなる概念が説明されていた。学んだことのない外国語もしくは意味不明の複雑な言語を操ることができるような現象の事を指すらしい。ここまで読んで、提橋はやっとこの論文が原田の部屋に置かれている理由が分かった。
 原田は原田なりに、提橋の知識の遠く及ばない所まで、彼自身の抱えた夢を説明してくれる何かを探したのだろう。
 こいつはこいつなりに真面目なのだ——提橋が原田の方を向くと、丁度彼と目がった。
「ビール、どうせお前はまだ飲むだろ?」
 原田が卓子テーブル上の提橋の缶を揺すりながら言った。
「本はどうだった?」
「悪いな。やっぱり、俺に必要なのは病院みたいだ。夢に見た文字が、こんな運命みたいに転がり込んで来るなんて事は——それこそ夢みたいな話だったんだよ。よく分かった。」
 提橋は原田の言葉に、一つ息をついた。案外あっさりと原田が引き下がった事への拍子抜けしたような安堵感と、それからほんの少しの落胆。そんな提橋の心中は、冷蔵庫を漁る原田にはきっと届いていないだろう。
「そうか、残念だなあ」
「喜んでくれよ。お前が言ったんだろう病院に行けって」
「いや、店長に頼み込んで折角借りてきた本が無駄になったなって」
「ああ、それは悪かったよ。ほら」原田は冷えたビールを寄越した。
「おう、ビールで許そう。」
 提橋は床の上で埃を被ったテレビのリモコンを手に取った。
 テレビをつけると、芸人たちがコントに興じていた。
「なあ、お前覚えてるか? 大学生の時」
「ああ、アレだろ。忘れる訳がないさ。新釈浦島太郎」提橋は苦笑いをした。
「なんでアレウケなかったんだろうな。おかしいだろあの客」
「まあ、浦島太郎が自分の頬をつねり続けるってだけのネタだからな。」
「一回目でウケないのは分かるけどさ。五回目くらいからは爆笑だと思うんだけどなあ。」
「今思えばあのネタ、抓ってるだけなのに複雑すぎるんだよ。まず浦島太郎が、昔話の浦島太郎とは全く性格が違うだろう? その上、疑い深い浦島が自分の頬を抓る度に違う世界で目覚めてって、その割に展開は直線的だったしなあ」
 提橋には、原田に誘われて半ば無理やり学園祭の舞台に立たされた時の記憶を鮮明に思い出すことが出来た。
「そういう事じゃないんだよ。俺あのあとほっぺたが腫れ上がったんだぜ? それくらい本気で抓ってたのに、その後に出てきた流行りの芸人のコピーみたいな、雑なテンション兄ちゃんの方がウケてたのが許せないんだ俺は」
 原田は鼻息を荒くして怒っていた。
 しかし、ステージで散々に滑った記憶も、提橋の中ではそう悪いものではなくなっていた。その事が彼にはなんだか切なく感じられた。
 彼らの意識がいつかの時代へと遊離していくと共に、居間の床では空き缶が列を成していった。

 線は線だ。
 点は点だ。
 線には線以上の意味はなく、点には点以上の意味はない。
 線と線が、或いは点が関係し合って、かたちが生れた。
 そして今も、目の前の文字と俺は関係している。
 俺は、この文字を知っている。いや、知っていた。
 ずっと知っていたが、しかし知ったのだ。

 白く太い線は華美な装飾を施されている。角は力強く張り、いくつかの白塗りや黒抜きの丸や三角が関係し合っている。
 あまり、文字らしく見えない。俺にはそう思える。
 だが、これは文字なのだ。文字でしかない。世界と社会と俺と言葉を繋ぐ関係の交差点。
 そして俺は、この文字を——夢に見た。

 文字の背後で、真白い蛹が絡み合って蠕動した。
 ぬらぬらと汚らしく青ざめた肉が緊張している。今宵ももうじき、張り切った面が裂けるだろう。
 生まれようとしている。
 生まれてくる世界と、俺は関係するのだ。

 真っ黒な床が、ぐにゃりと歪んで笑顔を見せた。
 醜い。
 赤子のように無垢な笑みを見せる皺だらけの老爺の顔を踏みつけて、俺は立っている。

 あの文字は、俺と何を関係させているのだろうか。世界と、社会と、それからやはり言葉。——

「◾️◾️◾️◾️」

 頭が、酷く痛む。体に力が入らない。
 このままもう一度寝入ってしまいたいが、喉が渇いた。眠ってしまいたいが——宿酔ふつかよいの倦怠感の中、提橋はゆるゆると覚醒に向かっていた。
 薄目を開けると、無数に並んだビールの空き缶が目に入る。自分が寝ているのが原田の家の床だと気がつくと、彼はやっと起き上がる覚悟を決めた。
 時間が気になって、ズボンのポケットからスマートフォンを引き抜ことしたが、右腕がない。
 どうやら右腕は、寝ている間中体の下敷きになっていたらしい。すっかり痺れ切って感覚がなくなっていた。呻き声をあげながら身を捻って仰向けになった提橋は、周囲に原田のいない事に気がついた。その辺りで、提橋の頭は水底から浮き上がるように覚醒し始めた。
 左腕を使って、右のポケットからスマートフォンを引き抜いて時刻を確認する。画面には[7:30]の表示。原田はもう出社したのだろうか——そう考えたが、だとしたらメッセージの一本でも入っていていい所だと考え直した。
 よし、と声に出しながら、足で勢いをつけて腹筋で状態を起こす。ずきりと頭が痛む。

 提橋は立ち上がって水を汲みに行く。コップに二杯ほど水を飲み、空腹に水がちゃぽちゃぽと音を立てたところで三杯目を捨てた。
 そのままキッチンの換気扇をつけると、ポケットから引っ張り出したタバコに火をつけ深く煙を吸い込んだ。血管が収縮したせいだろうか、頭痛が一層増した感じがあったが、それでも寝起きの体はニコチンを欲していた。
 ふと居間の方へと視線を向けると、机の上に何か書き置きが載っているのが目に入った。やはり、もう出社したのだろうか。
 短くなったタバコをシンクに浮いた水滴に浸け、コンロに置かれた灰皿へ捨てる。灰皿には原田の吸うラッキーストライクの吸い殻が一杯に詰まっていた。他所の家で、家主のいない時間に火事など起こしたら堪らない。
 提橋は大きく伸びをして、書き置きを確認することにした——

 五分後、提橋は再びタバコを吸っていた。
 もう何度かけても繋がらないスマートフォンを耳から下ろす。「おかしいと思ったんだよ」提橋はつとめて戯けたように声に出した。彼の声はガランとした部屋に虚しく吸われていった。
 がりがりと爪を立てて頭をかきむしると、吸っていたタバコを捩じ消して——舌打ちをしてから新たなタバコに火をつけた。

——持って行かれた、

 新たなタバコがあらかた灰になった頃、彼は沈痛な面持ちをしてスマートフォンを取り出した。滅多に使わないキャリア通話を使って電話をかける。
 一〇コールも聞いた頃、電話はやっと繋がった。
「なんだい」
 電話越しの店長、鹿園雅美はいつもながら、客観的に不機嫌そうな声を出した。
「どうも店長、提橋です。」
「うん。分かってる。それで、要件は?」
 提橋は苦虫を噛み潰したような顔をした。しかし、誤魔化しや引き伸ばしを許さない鹿園独特の声色が、いつも以上に彼を打った。
「……盗まれました。お借りしていたあの“本”が」
 無音が流れた。永遠にも思える数秒の中、提橋は無職になった自身の末路を、さながら走馬灯の如くに見た。
「とりあえず、店に来て。そこで説明してもらうから」
 その言葉を最後に、電話は切れた。

 提橋は何本目か分からないタバコに火をつけた。
 灰皿からは吸い殻が零れ落ちていた。


前篇ノ弐へ続く

2024/11/22 19:00 公開



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