ここは秘密の園 ①
泊木 空
天国の海には白い雲波が立ち、乗客を乗せた飛行機はシャチのように躍り出る。窓から見える雲波は雨粒を含んで柔らかそうだ。地上よりもぐっと近づいたせいか、太陽の光は急速に肌を焼くので、上空に出て数十分もしないうちにもうひりひりしている。
俺は窓についた震える雫を指で撫でながら、ここからほんとうに落ちるんだ、と頭の中で呟いた。雫の残した水跡の震えが、泣きながら書いた手紙の文字に似ていて、俺は目を瞑った。
「これから飛行機で上空に上り、富士山よりも高い高度から落下します。」
にこやかなインストラクターの顔を見て、かつてスカイツリーに上ったときのあの空中ガラス床、あそこに立っているだけで冷や汗をかいた昔の自分は可愛いものだったのだ、と俺は思った。
スカイダイビングはスカイツリーの六倍の高さから落ちるのだ。
試しにスカイツリーを六本繋げる空想をしてみたけれど、五本目で大気圏を突き破って宇宙に到達してしまった。ほんとうなら大気圏は地上から五百キロメートルほど離れた高さにあるけれど、三千メートルも五百キロメートルも俺の空想の中では同じようなものなのだ。
空想の大気圏にスカイツリーの穴が空くと、恐怖が無重力空間に吸い込まれていく。無酸素状態に近い頭で、逆に面白そうじゃね、とぼんやりと考えた。三千メートルから落下する。ここまで途方もなければもう逆に、面白そうじゃないか。
「おれ、昨日の夜はスカイダイビングで事故死したニュースばっかり探しちゃったよ。けっこうへこんだわ。」
スカイダイビングの開催場に行く前に、日之出はそう言ってため息をついた。俺を誘ったくせに、青い顔をしている。
「インストラクターがついてるだろ? 死ぬわきゃないさ。」
と、俺は軽く笑った。じっとり湿った手汗を拭い取るようにポケットに手を突っ込んだ。
目を開く。
飛行機は上空三千メートルを越えた辺りから高度を緩め、軌道が平行に近づくと、傾いていた身体がゆるやかに元の姿勢に戻った。かなり寒いのかと予想していたが、機内は地上と同じぐらいの温度に保たれている。
パラシュートを詰めたリュックサックの肩紐を握った。身体から離れないようにがんじがらめに縛っているが、パラシュートは心許ないほど軽い。
助手席から振り返って背後を見た。日之出と彼のインストラクターが、開いた足場から脚を出している。
「倉岳! 行くぞ!」
俺の名を咆哮すると、日之出は足場を掴んでいた両手をぐんと突き出し、空に吸い込まれるように消えた。
「さあ、お兄さん。次いきますよ。」
日焼けした顔に笑みを浮かべるインストラクターが俺の肩をがしがし叩いて揺らした。日之出を見て、怖がったと思ったのかもしれない。席を立ち、飛行機の後部に這いながら進む。
乗客は俺一人、大量のガソリンを使って上空をいつまでも旋回している飛行機は、ただ俺が落ちる瞬間を待っている。
目下は、雲の大海原。
怖い、と思ったのも束の間、好奇心がぶわりと沸き起こる。
早く落ちたい。
落ちて、体感したい。
「行きます。三、二、一。」
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『行街』バックナンバー
行街で発表された小説です。
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