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お金の歴史①

今から1400年前、そのころお金として流通していたのは布と銀。
布=麻という植物からとった糸を編んだもの、大きさはヒロという単位が使われ「1ヒロ」は、幅約75cmで長さ約180cm(大人が両手をひろげたぐらい)だと言われている。
     ヒロは両手をヒロげた長さという意味?
同じく、銀のお金も流通していて10gぐらいの丸い銀が「無文銀銭」と呼ばれていた。当時は、1文、2文と数えて「この着物3文だ」というように計算していたようだ。銀銭に破片が打ち付けられているのは、一定のお重さに調整しようとしていたことがわかる。布や銀銭は、高価な品物(例えば、シルクの生地、家、馬など)の大人な買い物に利用されていた。

7世紀終わりごろ、畿内(奈良とその近くの4つの区域)を中心に新しい国づくりのため、銅銭を導入し「無文銀銭」の使用を禁止する。(銅銭の「富本銭」もそのころ作られたお金だが、不人気のまま流通せず消えていった)だが、3日後には命令を取り消す。人々が物の売り買いをやめてしまい、建設物資が売り買いできなくなった。

708年 和同開珎の誕生


8世紀はじめ、奈良での新しい都『平城京』の建設が進む。
前の失敗を生かし、政策として「銀の和同開珎」を製造する。
      なぜ?銅に移行したいのにまた銀に?
10gの無文銀銭があるかぎり、人々は銅銭を受け取らない。
ならば、銅の無文銀銭の変わりに銀の和銅開珎を使うように命令。

《銅の無文銀銭10g⇔銀の和同開珎5g》

そのうち、銅の無文銀銭10gを製造しないようにし、銀の和同開珎のみ流通させるという目論見は大成功し、人々は、10gと5gを理解して使い始めた。
        10gの銅製無文銀銭は消えていく

政府が次に打ち出したのは、銀の和同開珎と同じ形・同じ文字・同じ大きさの、銅の和同開珎を製造し同じ値打ちで使うよう命令。だが、人々は銅を相変わらずほしがらない(受け入れない)

なぜ?

709年 銀の和同開珎使用禁止
いつまでたっても人々が銅の和同開珎を使わないので、そのころ人気の銀の和同開珎を強制的に排除する。
その結果人々は・・・しぶしぶ受け取る人もいたが、ほとんどは従わなかった。政府のいうような値打ちで受け取ったが最後!自分が損をすると不安だったのだ。

次の政策がでる。
【銅の和同開珎を受け取って貯金をすると、政府が表彰して位を授ける】というもの。だが、少々の金額では位はもらえず、一般の人達にはチャンスがない。
一方、豊かな人達は偉くなる為に、位を買い取るという人が出てきた。
そうなると、働いた分の給料を政府から銅で支払ってもらい、豊かな人が持っているなにかしらの物と交換してもらえるかもしれない、と希望を持つ一般の人々が少しずつ増えはじめ銅が流通し始める・・・

和同開珎の銅銭は、人々に使われるようになり、政府の当初の目標(流通させる)だけは達成されたが、安い銅で作った銅銭に高い値打ちをつけて、どんどん買い集めることができなかった。銅銭で買えるものの量が減っていった。


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