インディ500を制した佐藤琢磨と内田篤人の引退と「ぼくの好きな先生」について。
先週末のスポーツ界のトピックスで特に話題になったのが、「佐藤琢磨、2017年以来3年ぶり2度目のインディ500制覇」と「サッカー元日本代表・内田篤人の引退」の2つだった。
それぞれ、〈世界の舞台で活躍した人〉と、〈まさに今世界で活躍している人〉である。
この二人の今日までの活躍を、選手としてブレイクする前から予見していた人がいる。その人は、私の書きモノの先生で、第111回直木三十五賞の受賞者でもある海老沢泰久先生だ。
残念ながら、海老沢先生は2009年8月13日に十二指腸がんのためわずか59歳の若さで亡くなられており、内田篤人の2014年ブラジルW杯での躍動とブンデスリーガでの奮闘、佐藤琢磨のインディーカーシリーズにおける輝かしい活躍を目にはされていない。
私が海老沢先生に文章の書き方を教わったのは大学4年生の時で、当時在学していた國學院大學文学部日本文学科で開講されていた「創作文芸論」の授業だった。
この講義は大変な人気で、先生はおよそ学生20人程度の規模を想定されていたようなのだが、第1回目の授業に出席した学生は80人超に及んでいた。
ここで海老沢先生がかなりきつめの選抜、というか「お前はなんのためにものを書きたいんだ?」と一人一人に聞いて、考えが甘ければその場でバッサリ、というようなものを行ったこともあり、2回目の講義では見事に24~5人ほどまでに出席者が減っていた。私は、もちろんその中に残っていた。
文章を書くということに対しては一切妥協のない先生だったが、毎週の授業の後、何人かの生徒を集めて学内のOB会館のラウンジで開かれるお茶会というか座談会は、いつも私の楽しみだった。幸いなことに、私はこの場への出席を許された。
その頃の海老沢先生は、私の中の印象では、ちょうどRCサクセションの『ぼくの好きな先生』にとても近かったように憶えている。先生は外部講師の立場であり、学内に研究室やデスクを持っていたわけではないので、OB会館のラウンジがある意味での定位置だった。「いつも一人たばこを吸いながら~」という、『ぼくの好きな先生』の歌詞を地で行くような人だった。
そもそも私が海老沢先生の授業を受けたいなと思っていたのは、過去に上梓された『F1地上の夢』や直木賞受賞作品となった『帰郷』を通じて知ったモータースポーツほか、野球・ゴルフなどの競技スポーツへの造詣の深さにあこがれてのことで、当時は『number』や『東京中日スポーツ』での執筆もされていたので、そこにお近づきになりたい、あわよくばそういった仕事についてみたいという不純な動機であったことはここで懺悔しておきたい。
今でも私が、スポーツジャンルでそういったテイストのnoteをやたら書きたがるのは、その頃の影響である。たとえば「祝祭は原色のマレビトと共に」というタイトルで書いたnoteなどは、まさにそうだ。
さらに言うと「梅雨明け前の青空に、加藤大治郎を想う。」というnoteは、このころに書いて海老沢先生に見ていただき、「ひとりのアスリートがこの世を去ったことで、新聞の敬称表記が替わる切なさによく気がついた」とほめていただいた文章が大元にあったりもする。
そんな動機で参加していたものだから(似たような動機で受講する学生も多かった)、座談会が興に乗ってくるとスポーツの話題なども出てきて、2004年は、ちょうど佐藤琢磨がF1参戦3年目を迎え、競争力のある「BARホンダ」チームに移籍をしてすぐのことだった。
当時のチームメイト、ジェンソン・バトンは後にF1のシリーズチャンピオンに輝き、佐藤琢磨もまた、インディ500を2度にわたって制覇する活躍を見せるなど、2004年のBARホンダは「大いなる未来」を秘めたチームだった。
その年のF1シーズンが開幕してまだ3戦目を終えたたぐらいの頃のことだったと思うのだが、「佐藤琢磨は近いうちに必ず表彰台に上るぞ」と海老沢先生がおっしゃったことを、私はよく覚えている。
当時、まだ日本人ドライバーでF1の表彰台至ったのは鈴木亜久里ただ一人だけで(1990年・日本グランプリ)、正直それは夢物語なのではないかなと思っていたが、海老沢先生曰く、「琢磨は失敗を恐れずに突っ込んでいくし、失敗しても必ずそれを取り戻そうと立ち上がる」から、栄光はそう遠くないということだった。
はたして、海老沢先生の予言は的中し、2004年6月20にインディアナポリスで行われたアメリカGPで、佐藤琢磨は日本人ドライバーとして2人目となるF1ポディウムフィニッシュを果たした。その結果受けて、「どうだ、俺のいった通りになっただろう」と、授業の打ち上げの酒席で大得意に笑う先生の顔は今でもよく覚えている。
今回、そして2017年のインディ500優勝も、元をたどれば2012年の同レース、ファイナルラップの最終コーナーでこのレースを勝ったダリオ・フランキッティーのオーバーテイクに失敗してクラッシュ、すんでのところで勝利を逃した失敗からの再起によるものである。
ここ最近では、そのドライビングスタイルが現地では批判の的にさらされることもある佐藤琢磨だが、これまでの日本人ドライバーが「彼はプロフェッショナルだね」という、全く褒めていないコメントで処理されていた(プロドライバーなんだから、プロフェッショナルであることは当たり前で、何の中身もないコメント)ことを考えても、その存在感の大きさがうかがい知れる。失敗を犯しても立ちあがってくることへの畏敬の念の表れと言っても良いかもしれない。まさに、海老沢先生の生前の見立ての通りだ。
その後、授業の修了をもって海老沢先生との連絡は年に1~2度あるかないかになってしまったが、先生の書くコラム、特に東京中日スポーツの『セブンアイ』は毎週必ず読んでいて(海老沢先生の担当は木曜日だった)、その中で「彼は必ず世界に羽ばたく」と先生が熱心に推されていたのが、2006年、まだ高卒ルーキーとして鹿島アントラーズに入団したばかりの内田篤人だった。
海老沢先生は茨城県の真壁町(現在の桜川市)の出身で、そのため、茨城県プロスポーツのアイコン的存在でもある鹿島アントラーズのことを大変熱心に応援されていた。まだほとんど出場機会のない高卒新人を、紙面に名前を出して紹介するのだから、先生の内田篤人への入れ込みは相当のものだったと思う。
果たして内田は鹿島でコンスタントに出場を続けてレギュラーの座をつかみ取り、主力選手となっていくのだが、彼が活躍するたびに『セブンアイ』での海老沢先生は、まるで自分の自慢の息子が活躍しているかのような喜びようと熱の上げ方だった。
そうした中で内田篤人は2008年に始めて日本代表に選出され、海老沢先生の熱の入れようもさらに加速するのだが、このころにはすでに病魔に侵されておられたようで、『セブンアイ』の掲載も断続的になり、亡くなる一週間前の2009年8月6日の掲載が、結果として最後となってしまった。まさかそのようなことになるとはつゆ知らず、当時の紙面を保存していないのが今でも悔やまれる。
その内田篤人が鹿島から世界に羽ばたき、ドイツ・ブンデスリーガの古豪シャルケ04に新天地を求めたのは翌2010年のことで、その後の彼の活躍を見るたびに、私は海老沢先生のことを思い出すのだった。
あの頃からもう15年以上の時が流れて、私も会社員勤めをしながら、書きモノの世界ではないものの、それなりに業界に対して大きな爪痕を残せているなと手ごたえを感じていたのがここ2~3年のことだった。
ただ、結果として無理をしていたのか、「うつ」になって仕事を休むようになったのが半年前のことで、その頃ある意味のリハビリという理由でnoteという書き物を始めたのは、やはり海老沢先生に教わった時間の尊さが無意識のうちにそうさせているのではないかと、改めて思い直したこの週末の2つのニュースだった。
海老沢先生の著書であり、直木賞受賞作となった『帰郷』の中に、こんな一節がある。
「男はどんな男でも、大なり小なり、宴はいつか果て、花は散るものだということを思い知らされる。」
このフレーズを、まさに宴果てた今思い出したのも、何かの縁のような気がしている。今晩、久し振りに『帰郷』を読み返してみようと思う。ハタチそこそこではわからなかった見え方が、40手前の今の自分には見えるかもしれない、そんな気がしている。
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