12.公園の蛙
男女がカフェで話していた。
恋人ではないが、友達より少し親密な関係。
「俳句を始めたんだ」と彼が言った。
「俳句? どうして?」
「何か、趣味を見つけないと、と思って」
「それで、どうして俳句なの?」
「だって。スポーツは苦手だし……」
水泳はできない。ジョギングは嫌い、山登りは面倒、楽器はできない。歌はオンチ。歴史は興味がないし、絵はへたくそ。それで……。
「俳句なの?」
「一番短いし」
小説を書くのもたいへんそうで、一番短い俳句にした。
「近所に俳句のサークルがあって」
老人が多いが、若い人もチラホラいるらしい。
「それで?」
「次のお題が蛙なんだけど、なかなかできなくて」
毎回、お題がでるらしい。
「蛙ね」
彼女が知っている蛙の俳句は、「古池や」と「?せ蛙」だけ。
「蛙ってよく知らない、探しに行ったんだ」と彼。
「いたの? 蛙」
「いた、いた、ほら公園の小さな池。まだオタマジャクシだったけど」
「よかったじゃない」
「子どもが見ていたり、女の人が写生してたり」
「写生?」
「そうそう。おばさん。年は母親と同じくらいかな。もう少し上かも。聞いたら、卵の時から毎日、描いているんだって」
「へえ、蛙が好きなんだ」
「それがさ……」
「なに? 変な人なの」
「変じゃないけど。絵が」
「絵が? 上手? 有名な画家さんとか」
「違う違う。絵がへたくそなんだ」
「へたくそ? なに、それ」
彼女がコーヒーを吹き出しそうになった。
「ただのおたまじゃくしでしょ」
「いや、ホント。芸術的に下手くそで、何が描いてあるのかまったくわからなくて」
「おたまじゃくしが?」
「それがね。宇宙空間に浮かぶ、不思議な球体から、何かがシュッと吹き出していて。あれってきっと、ガンマーバーストじゃないかな」
「何それ?」
「知らない? 超新星爆発の時に出るっていうガンマー線の大量放出」
「おたまじゃくしから?」
「卵の絵はもっとすごいけど。あれは、何て言うんだろ。宇宙空間を飛ぶ神秘の数珠かな。宗教的は趣がある」
「なに、それ」
彼女は、また吹き出しそうになり、口を抑えた。
「でも、その絵を見てたら、一句、浮かんだんだ」
「よかったじゃない」
「おたまじゃくし、宇宙の神秘を感じさせ。どう?」
彼女は首をひねる。
「ウーン。きっと、ダメ」
「やっぱり?」
二人は何となく微笑んだ。
彼女はコーヒーを飲み終わり、
「ねえ、その人、今日も公園に来てるかな?」と言った。
「どうだろう。来てると思うけど。行ってみる?」
「行く行く。その絵、見てみたい」
じゃあ、行こう、と二人は席を立ち、カフェから出て行った。
二人のすぐ後ろの席に、女性が一人、座っていた。
彼女は悩みを抱えていた。先月、彼氏と別れた。三年、付き合ったのに、理由も言わずに部屋を出ていってしまった。
今月、母親が病気で倒れた。手術が必要らしい。世話をするのは彼女しかいない。
先週、会社が倒産し、失業した。職を探さないと……。
人生は不幸ばかりだ。これからも幸運なんて来そうにない。あれこれ考えていると、気分は重くなるばかりだった。
いっそ、死んでしまいたい……。
隣の会話を聞くこともなく聞いていた。蛙の話。公園でへたくそな蛙の絵を毎日、描いているおばさんの話。
おかしくて、バカバカしくて、始めは気楽でいいな、と少し腹が立った。しかし、話を聞いているうちに、急に、悩みの全てがどうでもいいような気がしてきた。きっと、真剣に悩むほど人生は重くない。深刻に思える悩みも、人からみれば、蛙の俳句ぐらいなものかもしれない。
腐れ縁の男と別れられて良かったじゃない。病気も早く見つかってラッキーだった。あの会社より良い職場なんてどこにでもある。
そう思うと心が軽くなっていった。
へたくそな蛙の絵。描いている本人は楽しくてしかたがないのだろう。私も二人の後を追いかけて、公園のおばさんを見に行こうか、と彼女は思った。その宇宙を思わすオタマジャクシの絵を一目見てみたかった。
カフェにいた男女は公園に向かっていた。自分たちの他愛もない会話が、一人の女性を救ったかもしれない。そんなこと、夢にも思わない。もちろん、公園でおたまじゃくしを写生している、絵がへたくそな女性も。
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