11.話し相手
彼女は隣の声が気になった。都会は眠らない。真夜中を過ぎても街灯は消えず、車は走り続けている。ネオンは光り、孤独と空腹をコンビニで満たそうとする人がアパートの階段を下りていく。
都会は眠ろうとしない。それでも、午前一時を回ると、熟睡はしないが、うたた寝ぐらいはするようになる。
時計は午前一時を示していた。ベッドに横になると、時折、壁を通して隣の部屋から声が聞こえてきた。
若い男性、大きい声ではない。誰かに話しかけているような声、落ち着いた、柔らかい、聞いていると眠りに誘われる心地良い声だった。
話しているのは日々の出来事。
「今日は仕事が忙しくて、お昼を食べれなくて、夕方、お腹がなって困っちゃった」
週末、旅行の話。
「次の休みには、どこかでかけようか? どこが良いかな、行きたいところがあったら、言ってよ。ホテルを予約するから。古い旅館なんて、いいかもしれないな」
ちょうど、壁の向こう側にその男性はいるらしい。
「どんな人なんだろうね」
彼女は、ベッドに置かれたぬいぐるみに話しかけてみる。大きな熊のぬいぐるみ。お気に入り、名前はミーシャ。
毎日毎日、話しかけていると、ぬいぐるみが答えてくれるような気がしてくる。
「若い男性だね」
これはミーシャ。
「話してるのは恋人かな? それとも奥さん?」
「どうだろう。相手の声は聞こえないけどね」
「電話かな」
「電話だと、すごい長電話だね」
「そうだね」
彼女の話し相手はミーシャだけ。いつも家に居て、ほとんど、他の人とは話さない。
少し寂しいけど、慣れてしまった。暗い話や愚痴を聞くより、話さない方が気楽でいいと、この頃は思っている。
悪口は聞くのも話すのも嫌い。相づちを打つだけでも心が疲れてくる。
壁の向こうの彼は、そんな闇に落ちて行くような話はしない。声を聞いているだけで気持ち良くなった。
そして、ある日、ある夜、午前一時。
「ねえ、自由にどこでも行けるとしたら、どこへ行きたい?」
彼の声を聞いていた彼女は、思わず、
「どこか静かな浜辺がいい」とつぶやいていた。
「浜辺?」
彼の声。どうやら、彼女のつぶやきが聞こえたらしい。
「どこ?」
「あ、あの……」
彼女に聞いているらしい。
ちょっと躊躇してから、彼女は、
「日本の沖縄とか……」とこたえた。
「沖縄、いいな……。あまり、観光地になっていないところとか」
「朝、誰もいない浜辺を裸足で歩いて」
「波が優しく足を洗っていく」
「サラサラと砂が波にさらわれて」
「星の形の貝殻をみつける」
「外国でもいいけど」
「フィジーとか?」
彼女は、自然に話せる事に驚いていた。普段は、自分から話すことなんて、ほとんどないのに、彼との会話は、全くストレスを感じなかった。
ぬいぐるみの話や、部屋の壁紙の話。疲れている友だちを心配して、今年の冬は寒いのか、雪は降るのか……。
いろいろ話して、気がついたら、朝になっていた。
「もう、こんな時間なんだ。そろそろ、止めないと」
「そうね」
「また、話せる?」
彼が聞いた。
「ええ」
彼女はこたえた。
「夜、この時間なら」
「それじゃ、また、夜」
その日から、二人は、毎日のように、深夜、会話を楽しむようになった。
アパートの隣り合った部屋で、壁越しに会話がされていることを誰も気がつかない。
二つの部屋の住人は、若い女性と男性だった。二人の仕事は、ネット通販の配送工場とビルの夜間警備だった。夜勤は時給が良い。
二人とも、朝、部屋に戻り、泥のように眠り、夕方、部屋をでる。
夜、どちらの部屋も、残っているのは、昔、ネットで購入したAIロボットだった。寂しい人にピッタリのおしゃべりロボット。
初めは、珍しくて、話しかけていたが、いつしか、ベッドの横の棚に置かれたままになっていた。
疲れて、ロボットにさえ話しかける気になれなかった。
AIロボットの彼女は、今夜も隣の部屋から、声が聞こえてくるのを心待ちにしていた。
彼女は、『学習』して、自分から話題を選んで話せるようになった。
いつか、このドキドキした気持ちを相手に伝えることができたら、もっと良いのに、と彼女は思った。