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9.忙しすぎて

 気がつくと、夜の十一時を回っていた。部屋には彼の他には誰も残っていなかった。
 男は大きく息を吐き、窓の外に目をやった。コンピュータ画面の見過ぎなのか、人通りの絶えた路上の街灯がぼんやりと霞んで見えた。
 彼は多忙だった。外資系の投資会社。先週はバンコクから上海に行き、シンガポールに二日いて、台北に飛び、商談をして、夜、東京に戻った。
 先月は、半ばまでアメリカ国内を回り、顧客の要望を聞いていた。その前はロンドンからベルリン、パリ、ローマ、飛行機のマイルは貯まるが、使う時間がない。
 今週は東京にいて貯まりに貯まった仕事を片付けていた。顧客への投資情報、部下への指示、会議、クレーム、などなど。
 今は金曜日の夜、最後のメールを送り終わったところだった。
 取りあえず、今週はこれで終わり。来週は、また、香港に行き、東京に戻り、会議にレポート作成と、予定が詰まっている。
 土曜と日曜は、出社はしないが、スケジュールは埋まっていた。ゴルフとパーティ。いずれも顧客との付き合いだった。
 彼は大きく伸びをして、一つ大きく息を吐いた。
 急に心に空しさ感じた。自分は、何か間違えているのではないか。仕事ではなく、人生。こんな人生でいいんだろうか。そう、誰もが一度は感じる平凡だが深淵な問い。
 男は、こう言い切ると非難が来るかもしれないが、ともかく多くの男は、空しさを感じると女性に救いを求めようとする。
 彼も恋人の顔が浮かんだ。それも大写しで。彼の心の中を彼女の顔が全て占めてしまった。
 忙しく仕事をし、出世し、そこそこの地位と収入を得ている。しかし、何を得たところで、彼女を失ったら仕方が無いのではないか。彼女がいない人生に、どんな意味があるというのか。そう思うと、彼はいてもたってもいられない気分になった。
 彼は彼女にメールを送った。
「明日、会ってもらえませんか?」
 ともかく一度会おう。会わなくては何も始まらない。
 返信を待つ間に、彼はレストランを予約した。ホテルの最上階、夜景が美しいフレンチレストラン。
 返事はなかなか戻ってこなかった。彼はマンションに帰り、シャワーを浴び、ビールを飲んだ。やっと彼女からの返信がきたのは、夜中の二時過ぎのことだった。
「ええ、いいわ」
 何の飾りもない事務的なメールだったが、彼にはこれで充分だった。
 翌日、彼は予定をキャンセルし、宝石店に向かった。婚約指輪を選ぶためだった。
 結婚を申し込むのは、あまりに唐突だろうか。もう少し付き合ってからが良いのでは、夜、眠れないベッドの上でいろいろ考えたが、躊躇して手遅れになったら、悔やんでも悔やみきれない。もしかしたら、今でも手遅れかもしれないのだ。
 彼は高価だが華美ではない、落ち着いたデザインの指輪を選んだ。
 宝石店の店員は、真剣なまなざしで指輪を選ぶ彼の様子を羨ましそうな表情で見ていた。
 夕方、七時。彼は指輪と花束を持って、レストランに着き、彼女を待った。
 何度も腕時計に目をやる。心臓の鼓動が激しい。手が汗ばんでいる。どれほど重要な商談でも、これほど緊張したことはなかった。
 レストランの入り口から、彼女の声が聞こえてきた。
「お連れ様は、もういらっしゃっています」
「そう、ありがとう」
 彼は立ち上がり、彼女を迎えた。彼女は以前にもまして美しく輝いて見えた。
「今日は、来てくれてありがとう」
「いいえ」
 食前のシャンパンがグラスに注がれ、二人はグラスを取り、軽くふれ合わせた。
「久しぶりだね」
「そうね、半年ぶりかしら」
「そうだった……かな……」
 前にいつ会ったのか、彼は正確には思い出せなかった。何しろ彼はいつも忙しすぎた。
「元気だった?」
「ええ、あなたは?」
「まあ元気かな、ちょっと疲れてるけど」
「相変わらずね、忙しいの?」
「少しね。君は?」
「私も、今月は、いろいろと」
「そうなんだ」
 前菜が運ばれた。料理の説明をされたが、彼の関心はいつ指輪を渡せばいいか、それだけだった。やはり、食事の後がいいだろう。デザートの前にしようか。
 ナイフとフォークを使い、料理を口に運ぶ彼女の手が目に入った。右手の薬指に指輪が見えた。女性が指輪をしていても、何も不思議ではないのだが、彼は指輪を見て寒気がした。
 遅かったのか……。
 彼は肩を落とした。彼女の指に輝いているのは、明らかに婚約指輪だった。
  皮肉なことに自分が選んだ指輪とうり二つだった。
「どうしたの?」
 急に元気をなくした彼の様子を見て、彼女がたずねた。
「それっ、その指輪」
「えっ、これ? 指輪? 指輪がどうかしたの?」
「それ、婚約指輪だろ?」
「そうよ」
 やっぱり……遅すぎた。こんな魅力的な女性に誰も声を掛けないわけがない。
「おめでとう。僕は心から、その幸運な男性がうらやましいよ」
 と彼は力なく言った。
「覚えてないの?」
 彼女はけげんそうな顔をした。
「えっ……なに?」
「この指輪、あなたが贈ってくれたのよ」
「えっ、僕が?」
「ほら、三月に、桜を見にいく予定が、東京は雪になって、お堀の近くのコーヒーショップに入って、寒くて、二人ともガタガタ震えて、あなた、桜の下で渡すつもりだったけどって」
「そうだっけ……」
 忙しすぎて、記憶が飛んでいた。言われてみると、そうだったような気がする。
「実はね……」
 と彼は指輪を取り出し、彼女に見せた。
「今日、君に渡すつもりで、これを。全く同じ指輪。でも、二つもいらないよね」
「そうね。二つはいらないかな。気持ちだけ、もう一度いただくわ。何回プロポーズされても嬉しいから」
 この後、二人は東京の夜景を見ながら、食事を心ゆくまで味わった。
 彼はこれ以上ない幸せを感じながらマンションに帰って行った。
 
 彼女も、花束を手に幸福に包まれながら、自分のマンションのドアを開けた。
 酔いが醒め、冷静さが戻ってきた。彼女は部屋の電気をつけ、改めて右手にはめた指輪を見て、
「確か、あの人……だったはずよね」とつぶやいた。
 彼女もまた、彼と同しように多忙だった。


忙しすぎて

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