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4蜘蛛の糸(猫編)

ある日の事でございます。おしゃか様は、極楽の蓮池のふちを、ひとりでぶらぶら歩いていました。おしゃか様は蓮池のふちにたたずんで、蓮の葉の間から、下のようすを御覧になりました。極楽の蓮池の下は、丁度、地獄の底に当っていて、水を透して、さんずの川や針の山の景色をはっきりと見ることができました。
 実は、おしゃか様は、地獄をのぞくのが、ただ一つの楽しみでした。罪人たちが、針の山で倒れ、顔に針が刺さる様子や、血の池でおぼれている姿を毎日、こっそり見ては楽しんでいました。

 血の池に、カンニャタという白黒ブチの猫が、ほかの罪人と一しょにおぼれている姿が眼に止まりました。このカンニャタは、一人暮らしのおばあさんから、年金で買ったアジの干物を盗んだり、寝ている赤ん坊の横にウンチをしたりと、いろいろ悪事を働いた猫でございます。
「今日は、あの猫と遊ぶことにするか」
 おしゃか様は、そうつぶやくと、蓮の葉の上にかかった蜘蛛の糸を手に取り、地獄に向かって下ろしていきました。
 おしゃか様は、時々、こうやって、蜘蛛の糸を地獄に垂らし、罪人に登らせ、極楽の近くまで来たら、「ほら、残念」と、言って、プツンと切る、趣味の悪い遊びをしていました。
「ひどい性格だ」などとは、おっしゃらないで下さい。誰でも暇がすぎると、つまらない遊びを始めるものなのです。なにしろ、極楽には、コンビニもゲーセンもネットカフェもないので、毎日、暇で暇でたまりませんでした。

 さて、こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一しょに、浮いたり沈んだりしていたカンニャタです。池の血にむせびながら、カンニャタが、なにげなく頭をあげ、血の池の空をながめると、蜘蛛の糸が、細く光りながら、するすると自分の上へ垂れてきました。カンニャタは、蜘蛛の糸を見て、
(この糸をどこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるに違いニャイ)と、思いました。
 カンニャタは、さっそく、その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとのぼり始めました。
 地獄に来てからダイエットしたとは言え、まだまだ太り気味のカンニャタは、少し登るだけで、フウフウと息が荒くなりました。細い糸では、爪を立てることもできず、少し登っては、ずるずると下に落ちるしまつでした。
 蓮池のおしゃか様は、落ちそうになっては、あわてて蜘蛛の糸を必死でつかむカンニャタの姿がおかしくて、おかしくて、極楽の怠惰な生活で大きくつきだしたお腹を抱えて笑っていました。

 しばらくのぼるうちに、カンニャタはくたびれて、糸の中途にぶら下りながら、遥かに目の下を見下しました。すると、一生懸命登ったかいがあって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう暗の底に、小さな池のように見えていました。恐しい針の山も、三途の川もおもちゃのように小さく見えました。
 この調子でのぼって行けば、地獄からぬけ出すのも、わけがないかも知れません。上を見ると、気のせいか、ぼんやりと蓮池の明かりがみえるようでした。
「よしがんばるぞ」
 カンニャタが、また元気を出して登ろうとすると、「おーい」と、声が聞こえました。
カンニャタが下を見ると、蜘蛛の糸の下の方には、かずかぎりない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるでありの行列のように、上へ上へのぼって来ていました。そして、罪人の後からは鬼たちが、罪人を引きずり落としながら、登ってきます。
「まずいニャ」
 カンニャタは、あわてて登り出しました。しかし、猫の手では、うまく蜘蛛の糸をつかむことができません、あわてればあわてるほど、すべってしまい、登って落ちて、登って落ちて、「ワニャワニャ」と、必死になって手足を動かし、カンニャタは、何とか糸を上っていきました。

 おしゃか様は、そんなカンニャタの姿が、もうおかしくておかしくてたまりませんでした。いつもなら、罪人が、半分ほど登った所で、もう飽きて蜘蛛の糸を切ってしまうのですが、今日は、ともかくおもしろくて、あと少し、あと少しと、糸を切るのを延ばしていました。
 とうとう、蓮池のすぐ下まで、カンニャタが上ってきました。必死で上ってくるカンニャタの顔が、池の水を透して、はっきり見ることができました。
「わはは」
 カンニャタの顔は、涙と鼻水とでグシャグシャになっています。おしゃか様は、その顔がまたおかしくて、さらに笑いました。
「ワニャ」
 池の中にカンニャタの顔が入りました。
「ブクブクブク」
 カンニャタは息を止めて、池の中をさらに上っていきました。そして、とうとう、カンニャタの手が蓮池の表に出ました。カンニャタのすぐ後ろには、大勢の罪人たちが続いています。
「これはイカン、罪人どもが上ってきてしまう」
 おしゃか様は、あわてて、蜘蛛の糸を切りました。
 プツン。糸は切れ、罪人や、それを追いかけて上っていた鬼たちは、クルクル回りながら血の池に落ちていきました。
 蜘蛛の糸が切れた瞬間、カンニャタは爪を出し、何かに捕まろうと、必死になって腕を伸ばしました。カンニャタが腕を伸ばした時、丁度、おしゃか様が池の中を覗きました。
「ギャッ」
 爪の先が、おしゃか様の顔にかかりました。
「ニャッ」
 カンニャタは最後の力をふりしぼり、爪をさらに深く引っかけ、水の中から体をだしました。
「ギャッ」
 おしゃか様は、驚いてよろけ、「ウワー」と、叫びながら、蓮池の中に落ちました。そして、そのまま、池を突き抜けて、血の池に向かって落ちていきました。 
 牛のように太ったおしゃか様の体はコマのようにクルクルと回りながら、虚空を落ちていき、最後に、「ぼしゃ」と、大きな音を立て、極楽にまで届こうかというような血しぶきをあげて、池に沈んでいきました。
 血の池には、しばらく、大きな波ができていましたが、やがてそれもおさまり、罪人たちのうめき声が、月も星もない地獄の闇の中で聞こえるだけになりました。
 カンニャタは極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていましたが、やがて、何事もなかったように、ぶらぶら歩き始めました。蓮池の蓮からは、なんともかぐわしい匂いがたち上り、その匂いに誘われて、金色に輝く蝶たちが、集まって参ります。カンニャタは、そんな蝶を楽しそうにはたき落としていました。
 極楽ももう昼に近くなったのでございましょう。

蜘蛛の糸(猫編)

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