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下鶴間ぶどう園 金子耕造さんインタビュー

神奈川県大和市、小田急線鶴間駅から徒歩5分のところに『下鶴間ぶどう園』はあります。
駅のすぐそばにあるその場所では、シーズンになるとたくさんの人が集まり、ぶどう狩りや直売を楽しみにやってきます。

今回縁に恵まれて、撮影させていただくことが叶いました。まずは動画をご覧いただけると幸いです。

残念ながら動画に収められなかった部分も含めて、創業者の金子耕造さんのインタビュー全文を、以下に記載します。


◾️農園の規模について教えてください

今うちは大和市の中で一番大きいんじゃないかな、農業で。
僕は35歳で農業を始めたんですが、その時には畑を拡大していったんです。
親がやっていた畑は小さかったので。
鶴間のぶどう園の場所は元々松林だったんです。
その林をぶどう園にしました。
あそこだけで約8反(2400坪)あります。

それが最後に林を畑に変えた場所ですが、その前にも南林間の雑木林を1町歩(3000坪)ばかり畑に変えていました。
そこには栗を植えたんですよ。千本くらい植えました。
それで他の畑も合わせて、全部で2町2反(6600坪)山林を畑にしました。

金子さんのぶどう園。黄色い袋に入っているのがシャインマスカット

◾️35歳で農業を始める前は何をされていましたか?

工場の生産管理として12年間勤めていました。
農業はやったことがないので、ゼロから始めました。

◾️ご実家を継ぐ形で始めたんでしょうか?

継がなきゃしょうがないです。農業は相続が大変なんで。
当時生産緑地の相続猶予は20年で、20年農業をやれば固定資産税が猶予される制度がありましたんで。それを利用して始めました。
何もないので軽トラから買って、一台ずつ機械を買って。

◾️ぶどうを栽培しようと思った理由を教えてください

観光ぶどう園をやりたかったんです、駅のそばですし。
当時まだ少なかったですが、山梨でぶどう狩りがあったんですよ。
だけど山梨まで行かなくても鶴間でぶどう狩りができる。
そういう観光的なぶどう園にしたかったんですよ。
この辺りで今はぶどうをやっている農家がありますが、当時はなくてうちが初めてでした。
最初は失敗だらけで、働いた分がお金にならなかったけど、途中からはぶどうができて、売るようになって。
そうしたらお客さんがたくさん来てくれるようになりました。
当時シーズンになると、だいたい100人は常時並んでくれていました。

ぶどう狩り初日、たくさんの人が集まってきています

◾️ぶどうのシーズンは真夏ですか?

今ですと8月の中旬からですね。ぶどう狩りから始まって、直売もスタートします。
最初は巨峰で、8月末からシャインマスカットも始まります。
宅配もしています。
お客さんからよく聞くお話で「大和の特産品を人に送りたいんだけど、なかなかない。だからぶどうが美味しいからこれを送ってあげよう」という人けっこう多いんですよ。
当時自分がやってた頃、ぶどうの発送だけで2トンから3トン出していました。
2トンというと、大体2キロ箱に5房なので、5000房ですね。

◾️ぶどう栽培のことについて教えてください

ぶどうは果樹の中でもとても手がかかります。
収穫が終わっちゃうとほとんど仕事はないですが、葉が出てきてからが戦争なんです。
葉が出てくれば枝が当然伸びるわけで、自然にしておくと枝がごちゃごちゃになっちゃうので、全部人間が留めてあげるんです。
台風が来ても折れないように。
そして、売っているぶどうの形というのは人為的に作っていますからね。そのままにしていたら、とても長い房になるんです。そして小さい実がパラパラつく感じになるんですよ。
なので、小さいうちに短くしちゃうんですよ。そして小さな実がたくさんついるのを、ハサミで一粒ずつ抜くんですよ。それが気が遠くなるような作業なんです。

それが終わって初めて袋がけなんです。
みなさん摘果の作業を見てないから、袋がけが一番大変だと思われてるけど、袋がけは一番簡単なんです。

◾️そうなんですね! 摘果には技術も必要ですか?

技術よりやはり手間と時間なんですね。
ただ、人に手伝ってもらうとやはり速さが違ってきますね。
ここを抜いたらいいのかなというのを、みなさん1粒ずつ考えちゃう。
僕たちは自然にできますから。
それぞれの房に100粒くらいあるのを、30から40粒にしていきます。

◾️どういったこだわりを持って栽培していましたか?

ぶどうの場合には、やはり食べて美味しいことが一番ですよね。
お店に出る品物っていうのは見た目が重視されると思います。
だけど、直売の場合には見た目も大切なんだけど、その上をいくのは美味しさなんですよ。
美味しさでお客さんが来てくださるわけですから。

種あり巨峰と種無し巨峰

◾️始められた昭和60年頃と今とでは、大和市はだいぶ変わりましたか?

あの頃はまだ林が多かったですからね。
だいぶ市街化されたのは再開発された平成の時代ですね。
大和駅周辺は全然が土地がないから小さな土地をいかに効率よく使うかという話で、それで相鉄線が地下化されたんですね。
以前は文化会館が小さくて、市のイベントは隣の綾瀬や座間の文化会館を借りて使ってたんです。
なので、線路が地下化されてできたスペースにシリウスという図書館兼文化会館を建てたり、プロムナードを作ってイベントをやったりできるようにしたんですね。

◾️そうだったんですね!
大和市は細長い市で真ん中を小田急線が通っているので、便利ではありますよね

小さな市ですが7つも駅があって、どこからでも歩いて駅に行けるので便利ですね。
うちからも3か所の駅に歩いていけます。2、30分かかっちゃいますが。

◾️交通に便利ですが、直売所がたくさんあって新鮮なお野菜が手に入るというのが、市民からするとありがたいです

昔僕が農業を始めた頃は、周囲に直売所はなかったんですよ。
昭和60年ごろは農家の人はみんな市場に出していました。
相模大塚駅の近くに大和市市場というのがあったんです。
でも市場に出しても自分で値段をつけるわけじゃなく、競りで値段をつけるので、安くしか売れないんです。
当時J Aは全農という市場があったけど、そこも同じように買取しかしないですし、大量にじゃないと買ってくれないわけです。でもこのへんの農家は大量になんて作ってないので、安く市場に出していました。
そういう状況だったんです。
僕は元々農家じゃないので、どうして直売しないのかなと疑問に思ったわけです。
大和市にこんなに人がいるのに、どうして自分で売らないの?って。
親がずっとこうやってきたから子どももそう。
それで「農業は収入にならない」って言うわけですよ。

だから僕は自分でぶどうを売ろうって考えたんです。
農協に呼びかけて「直売所をつくろうよ」と。
ぶどう園の一角を直売所に変えて、農協や農家の人と一緒に8人くらいで『鶴間農産物直売所』を始めました。
今もそれが J A鶴間支店の裏で続いています。

◾️今後のぶどう園について教えてください

平成16年に女房が亡くなってからは、子どもにぶどう園を任せていこうと思って、そこから3年ほど教えて、僕はだんだんタッチしなくなってきました。
ここ5年ほどはほどんど息子夫婦に任せて、今は収穫の時だけ手伝っています。
収穫が一番喜びがありますからね!
一年の集大成ですから!

(取材日:2024年8月9日 取材者:伊東菜々子)


このインタビューはyoutubeのこちらの動画でも撮影させていただいた、超絶おいしいイタリアン『トラットリア・ピュー』のシェフがご紹介してくださった縁で実現しました。
本当に感謝です!

私が特に関心をいただいたのが、直売に関することです。昭和の終わりまではみなさん市場に出されていたたんですね。
金子さんのような元々サラリーマンをされていた方が推進力になって変えていくことで、都市の小規模農家さんの経済もまた変わったのだと思います。
さらにそれは買う側の選択肢が広がることに繋がって、都市生活に豊かさをもたらしてくれています。

金子さんは大変お話上手で、歴史についても詳しく、また何度でもお話を聞きに伺いたいと思いました。
ありがとうございました。

ぶどう狩りや直売所のスケジュールは、『下鶴間ぶどう園』のブログをご確認ください。
https://ameblo.jp/simoturuma-budou/


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まちなか農園 バックヤード|伊東菜々子|
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