余分なひと
「おめぇはおばさんになればいいやな」
整骨院に行った帰りの車。
目が潤うような青い山並みを眺めながら、助手席の祖父は運転するわたしに言った。
36歳・女性は、小学生から見たらおばさんだろう。
中学生、高校生、大学生から見てもおばさんだろう。
20代だって前半ならやっぱりおばさんに思うだろうか。
後半にもなれば「意外と若い」と思ったりもするけれど「人によりけり」というのも同時に学んでいそうだ。
わたしより年上の人たちからは「まだ若いわよ〜」と言われるだろう。そこには、きっと遠くにいるその人が映っている。
家族で晩ごはんを食べていた。
ニュースを見て「今の家族には、余分なひとがいねぇから大変だいな」と祖父が言った。どんな内容だったかは忘れた。
余分なひと
祖父が若かった頃は、おじさんやおばさんというひとも家族として一緒に暮らしていたらしい。
結婚前のおばさんとか結婚しないおじさんとか、いろいろあってないような事情で家にいるひと。
働いていたり家事や育児を手伝っていたりするけれど、家族の中心メンバーには見えないひと。
いなくても家族が成り立つひと。
けれど、白和えを作るためだけにお豆腐を買ってきてくれるひと。
新しいお酒をあけたい時に一緒に飲んでくれるひと。
これもあれも食べたいから、半分こしようよ、ができるひと。
余分な選択肢をもたらす、気楽さを持っているひとでもある。
そんな、よくわからないけれど家にいるおばさんやおじさんを祖父は余分なひとと呼んでいた。
家族は「いつまで家にいるんだろう」と心配しながらも、(きっと)許容せざるを得ないし、それなりに楽しく暮らしている(だろう)。
今のわたしは、家族にとって余分なひとだ。
祖父のいうところの、おばさんだ。
どこかの会社に所属せずに細々と働いてのんきにしているので、家族のみならず社会にとっても余分なひとな気がしてきた。
そう思ったら、突然ものすごく楽になった。
思えばずっと誰かの世界のいい役が欲しかった。
上手に演じて、みんなから拍手があるとほっとした。
人の役に立ちたいという思いが強い反面、どうやらわたしは社会というものに溶け込むのが苦手なのも早いうちから知っていた。
いてもいい。
じぶんでじぶんにそう許可するのに、なぜか社会の中にじぶんの置き場所が必要だった。
本当はいつだって、どこだって、好きにいていいのに。
それはわかっていても手放せなかった。
社会の中にいられなければ、さもなくば。
肩や背中に重たい曲がループする。
楽しい時はかかっていることを忘れるBGMのように、いつの間にかそっと流れていた。
その社会だって、どの社会だという話で、あの社会なのだろうくらいにしかわからない。
鏡張りでできた部屋に入っているようだった。
余分なひとになって、もう5年目になる。
猫のようにふらっと出かけていってはチャイを淹れたり、チャイを教えたり、カレーを作ったりしている。時々は手紙も出す。
好きなことを学んで、愉快でチャーミングな友人はますます増え、ここ2年くらいは地方にも仕事で出掛けていくことが増えた。
家族からは余分なひとどころか旅芸人と呼ばれている。
余分があまりすぎているのだろう。
余分なひとになりたての頃は、余分なひとは負担になるひとだと思っていた。
一人前と呼ぶには忍びなかったし、家族に迷惑をかけてはいけないから、早く社会に戻らないと、と思った。
何も出来ずに過ぎて行くまいにちが、情けなかった。
それでもただひたすら楽しいこと、気の向くことばかりをしてきた。
洗濯物を干すのは、その日の天気に触れるようで楽しかった。干しながら鳥の声がどのあたりで何羽鳴いているのかを想像してわくわくした。
老いた祖父の昔話を聞くとき、遠くに宝物を見る様な目になるのを見るのが好きだった。
仕事がひと段落した母にコーヒーを淹れて、一緒に甘いものを食べるのも嬉しかった。
スーパーに買い物に行って父の好物の金柑があると、喜びと同時にパッと手が伸びた。
カレー教室のアシスタントは、毎回先生の話が面白かったし、お客様と話をするのが楽しかった。たくさん失敗しても怒られなかった。
ハーブやスパイスの香りを嗅いでは、きょうはこれかな?とじぶんと植物と話をしているようで楽しかった。
そうやってできたレシピでチャイを飲んでもらって、おいしいと言われると嬉しかった。
チャイの教室で自由に楽しく振る舞うお客様の姿を見ると、やっててよかったな、と思った。
プリンやゼリーやアイスのような、甘く柔らかい後ろめたさを感じながらももう楽しいこと以外できなくなっていった。
そのうちに企業からチャイの講師としてお呼びがかかったりして、かつていたような社会の輪にちょこっとお邪魔するようになった。
望んでいたわけではなかったのに、あの社会ってやつとまた交わることになった。
誰かの世界の役ではない、わたしのままで。
本当はみんな誰かにとっては余分なひとだ。
余分なひとのままで誰かと充分つながれるし、大切にできるし、される。
余分なひとでいられないのは、じぶんの人生の中だけだ。
自然とそう思えるまで、周りが気長に待っていてくれた。
わたしも余分なひとのままで、余分なひとを待っていたい。
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