僕が、MACHIKOYAをはじめる理由。 【起の巻】:22歳の挫折

3月は、弥生月。
三寒四温で張り詰めた冷気が徐々に緩み始める季節。桜並木も日増しにぷっくりと、春への期待が街中に膨らむ。日本では特別なスタートを意味する、4月がもうすぐそこに、待っている。はじまりに向けた、おわり。3月もまた、多くの人にとって、特別な月を意味する。

僕にとっての最も特別な月は、22歳の3月だ。やがて社会人としてのはじまりを迎える時。成人はしていたけれど、やはり「子どもから大人」の境界線は、多くの人と同じように、自らで生計を立て始めるその瞬間は、僕にとっても特別だった。やがて始まる新生活への期待と、不安。その時、僕は、フィジーの海を眺めていた。

ちょうどその1年ほど前、大学3年生の3月、僕はようやく『就活』のスタートラインについたばかりだった。体育会の部活動が青春の大半だった当時の僕。その体育会のコミュニティの外との接点は、あまり多くはなかったが、漏れ伝わったり、時折目にしたりする、就活のニュースやリクルート姿の人たち。焦りを覚える気持ちを感じながら、直視したくない想いで3年生の秋の公式シーズンをやり切った。恐らくチームとしても、キャリアハイとなる好成績を残せたシーズンでもあり、個人部門でも最高のパフォーマンスを出せた瞬間でもあった。最高に充実したシーズンで終われたはずだった。最高学年の4年生を迎える来期こそ、という想いで冬オフを過ごす一方で、当時の僕には避けがたい悩みが2つあった。

一つ目は、3年生3月からスタートした就職活動で現実に直面した。かなりのスタートダッシュを決めている同級生を見ては、まだスタートライン近辺でもたついている自分の姿を重ねては、ようやくスタートさせた就活だったけれど、日々刻刻と遅れていく心境で、やればやるほど周回遅れを認知する日々だった。結局大した自己分析もできていなければ、何がやりたいかもわからず、どうやって企業を見つけて、どんなキャリアを歩みたいかなんて、微塵も存在しない就活に焦点を合わせていくほかなかった。4月になり、体育会ということで、とある有名証券会社の内定と、地元の地方銀行の内定が2社もらった。あっけないほど簡単な想いもあり、これで「部活動に専念できる」と思おうとしている自分も居た。「この2社の内定を保険にして、6月からの教育実習を経て、最後の進路をしっかり選べばいい」今に思えば、そんな甘えた感覚があったかもしれなかった。

しかし、4月になると二つ目の悩みの方が顕在化した。昨シーズンまでの活動の中で、先輩学生コーチと修復不可能な信頼関係に陥ってしまっていたことだった。当時は、今以上に負けん気と生意気さが尖がっていた21歳ではあったから、僕にも当然の未熟さはありながら、今の言葉で言えば、それなりのハラスメントを経験した。「長いものには巻かれない」性分だったので、組織のヒエラルキーの頂点でも、恐れずにぶつかりに行くスタイルだったから、仕方のないことでもあった。この春、卒業していくはずだった先輩コーチの去就をひたすら待っていた冬だったが、大学院への進学が決まり、チームにも残留することになった。尊敬できない学生コーチと最高学年としての逃げ場のないやり取りを重ねる中、今までは間に入った先輩方がうまく調整してくださっていた有難みがとても身に染みる一方で、自分の心に嘘がつけずに、みるみるうちにモチベーションを失っていった。

不安ばかりが募った就活と先行きが見えない自分の進路。そして、越えられない人間関係の葛藤の間で、僕は身動きが取れなくなってしまって、最終的には誰にも相談することができずに、仲間に黙って退部する道を選んだ。それは結局のところは、やはり「逃げだした」ということに他ならない。今でも、同級生や後輩には、弁解できない裏切り行為をしてしまった自分を情けなく思うと共に、以降の人生で、この挫折を口にせず、誰かのせいにしないで、自分自身が起こしたこととして、胸に秘めて生きていこうと思った。21歳の5月だった。

そして、6月は、教育実習に専念した。中・高校生の保健体育の教員免許を取得すべく、約3週間の時間を大学の附属高校の生徒たちと時間を過ごした。5つ6つほど、年の離れた高校生の彼らから「先生」と呼んでもらえることに、嬉しさと気恥ずかしさがありながらも、その時間はとてもかけがえのない時間となった。でもその一方で、たった3週間ほど指導案を作成して、来春から「なんでも知っている先生」として、生きていく自信が持てなかった。楽しかったし、遣り甲斐のある仕事と思う一方で、職業として選択することを諦めることにした。

そうこうしているうちに、いよいよ、来春から一体自分が何をしたいのか、答えを出せないままに、時間だけが過ぎていく日々。納得感を持てなかった内定2社の選択肢のほかに、航空業界、製造業、マスメディア、金融業、不動産業・・・、本当にたくさんの業界・業種を受け続けた。とうとう10月1日の内定式の日、納得感を持てなかった内定のうちの1社を断り、残りの1社のUターンの地方銀行への内定式に出席した。内定者代表の挨拶を指名されて嬉しくもあったが、「地元に帰る」ということが改めて自分の中で肚落ち出来ていないことを思い知らされ、やはり辞退することを決意した。なけなしの内定2社だったけれど、当時は現在と違って、内定辞退はそれほど一般的ではなく、「禁じ手」のような後ろめたさがあった。

そして、最終的に僕が選んだのは、「首都東京で、主体的な経済活動を感じられる仕事」という軸で、投資用不動産がバブル化して成長市場として拡がっていく世界に、一部上場企業の法人営業部隊で活躍したいというものだった。季節は、冬の足音が聞こえ始める、11月になっていた。それから、12月に卒業論文を提出して、ようやく卒業と就職の目途が立った。

目標を見失いながら、バタバタと追われるように学生最後の1年を過ごして、それはまさに自分のこれまでの人生の縮図のような1年だった。部活動の友も失い、僕が選択した『卒業旅行』は、バックパッカーとして見知らぬ土地をたった一人で訪ねてみることだった。タフな経験となったインドを経て、22歳の3月、僕はフィジーの海に旅立った。

まだ見ぬ景色を求めて-。

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